震災
2026年08月27日 05:22
先日、久々に武蔵小山の鉄板居酒屋の「鉄板屋」へ行ってきました。ここは神戸で飲食店を営まれていた女性店主(私はオカンと呼んでいるので以下オカン)さんが、阪神淡路大震災で大規模被害を受けたことをキッカケに、東京へ移住して来て開店されたお店です。そこで食事をしていたところ、オカンが、「そういえば大野君って電通岡山支社にいた平野さんって知ってる?」と聞いて来たのです。
「平野卓雄?知ってますよ。震災でお母さんを亡くされた平野でしょ。その時の岡山支社長が僕のオヤジです。震災当日にオヤジから住所だけ言われて現地を確認にいったけど、道路も路地も見分けがつかないほど壊れていて、旧支社長車だった黒塗りのクラウンが埋もれていて、その車で完全倒壊は防げたというのは聞きました。」私はそう言いました。
この地震発生は1月17日だったのですが、それから数か月後に私は電通西日本というに転職し、岡山支社に着任します。それは平野さんの大阪異動にあたって、ある意味で交代要員としての着任でした。(ある広告代理店マンの「震災10年」)
それから数時間は、とにかく神戸の地震が大変だった話しと、亡くなられた周囲の人々の話しだらけだったのですが、ちょうど高校50周年で神戸へ行った直後だったこともあり、いろいろな思いがこみ上げてきました。
その思い出話しの中で思い出した、当時同じ岡山支社で同僚だった立木君が言っていた「国会議員がまずやるべき究極の仕事って国民の生命を守ることだと思う」について書きたいと思います。
日本は、世界でも屈指の地震大国です。にもかかわらず、それに対する国家的投資は十分とは言えず、大地震による甚大な被害が想定される東京圏や南海トラフ沿いには、今なお人口や企業、社会機能の集積が続いています。
さらに日本は火山大国でもあります。東京だけを見ても、伊豆大島の三原山、三宅島などの火山島があり、その周辺には富士山、箱根山、伊豆東部火山群、浅間山、草津白根山など、多くの活火山が存在しています。
そして東京から約220km北東には、2011年の事故から15年以上が経過した現在も廃炉作業が続いている福島第一原子力発電所があります。その周辺では常磐線や常磐自動車道が復旧し、避難指示解除などに伴って住民の帰還も進められてきました。
さらにこの国には、毎年のように台風がやって来ます。線状降水帯による豪雨、河川氾濫、土砂災害もあります。さらに世界でも有数の豪雪地帯に、大都市や多くの街が存在しています。考えてみれば、これほど自然災害が多発する国も珍しいのではないでしょうか。
東京湾岸や河川沿いには、埋立地や沖積低地など液状化しやすい地域が広がっています。そこにタワーマンションやオフィス、物流施設などが次々と建設され、人口や都市機能が集積しています。政府の首都直下地震被害想定でも、東京湾岸や河川沿いの液状化しやすい地盤を中心に、建物の沈下や傾斜などの被害が想定されています。
もちろん、だから「東京に住むな」と言いたいわけではありません。東京が日本の政治、経済、金融、情報の中心である以上、人口や企業が集まるのは当然です。だからこそ、それに見合うだけの防災インフラを整備しなければならないのではないでしょうか。
首都直下地震についても、「いつ、どこで、どの断層が動くのか」を正確に予測することはできません。一方で、政府は首都直下地震について、東京圏には人口や建築物だけでなく中央省庁や企業本社などの首都中枢機能が高度に集積しているため、その対策を「我が国の存亡に関わる喫緊の根幹的課題」と位置付けています。
2025年12月に公表された政府の新しい被害想定では、都心南部直下地震が発生した場合、死者は最大約1万8000人、全壊・焼失する建物は最大約40万棟。さらに最大約1600万軒が停電し、約1300万人に断水の影響が及ぶと想定されています。資産などへの被害は約45兆円。経済活動への影響は約38兆円。合わせれば、80兆円を超える規模です。
南海トラフ巨大地震は、さらに桁違いです。政府が2025年3月に公表した被害想定では、最悪の場合、死者は約29万8000人、全壊・焼失する建物は約235万棟に達するとされています。
ここまで分かっているのであれば、政治がやるべきことは明確だと思います。「地震が起きたらどうするか」だけではなく、「地震が起きても死なない国をどう作るか」に、もっと国家予算を投入することです。
橋を耐震化する。
上下水道を更新する。
電線を地中化する。
河川や堤防を強化する。
津波防潮堤や避難タワーを整備する。
木造住宅密集地域の不燃化を進める。
古い住宅やビルの耐震化を徹底する。
避難所には、停電しても使える電源、空調、通信設備、給水設備を整える。
病院には非常用電源と水を確保する。
港湾、空港、高速道路、鉄道には代替ルートを持たせる。
通信網やデータセンターは一極集中させない。
首都機能そのものを分散する。
こうしたものは、平時には「無駄な公共事業」に見えるかもしれません。何千億円、何兆円を投じても、翌日に生活が便利になるわけではありません。何も災害が来なければ、その効果は誰にも見えません。
しかし、それでいいのです。防災インフラとは、使われなかったことこそが成功とも言える公共投資だからです。ところが政治家にとっては、これが非常に難しい。
任期中に完成する事業。
選挙までに成果が見える政策。
有権者がすぐに喜んでくれる給付金や補助金。
どうしても、そうしたものへ目が向きやすくなります。
しかし巨大災害対策は違います。今日1000億円を使っても、その効果が現れるのは30年後かもしれない。その頃には、予算を付けた政治家は国会議員ではないかもしれません。場合によっては、この世にいないかもしれません。それでもやらなければならないのが、国家の防災ではないでしょうか。
東日本大震災が発生した後、日本は巨額の復旧・復興費を投入しました。道路を直し、鉄道を直し、港を直し、街を造り直しました。もちろん、それは必要なことです。
しかし、本来最も効率がいいのは、「壊れてから100兆円使うこと」ではなく、「壊れる前に10兆円使って被害を小さくすること」ではないでしょうか。これは地震だけではありません。台風も、豪雨も、洪水も、高潮も、津波も、火山噴火も、豪雪も同じです。
日本では自然災害そのものを止めることはできません。しかし、「災害が起きること」と、「災害によって大量の人が死ぬこと」は、同じではありません。
地震は防げなくても、建物の倒壊は減らせる。津波は防げなくても、逃げる場所は造れる。豪雨は止められなくても、河川の氾濫リスクは下げられる。停電は完全には防げなくても、非常用電源は用意できる。道路が一本切れることは防げなくても、別ルートを造ることはできる。
つまり、防災とは自然との戦いではなく、「被害をどこまで小さくできるか」という国家経営そのものだと思うのです。そして、それこそが万一の際に国民の命を守ることだと思うのです。
私は、国会議員にはこういう仕事にこそ命を賭けてもらいたいと思っています。そして一人でも災害による悲しい死を減らしてもらいたいと切に願います。
災害が起きてから、「想定外でした」「これほどの被害になるとは思いませんでした」では遅いのです。
実際にはもう想定されています。どこが危ないのかも、おおむね分かっています。何をすれば被害を減らせるのかも分かっています。あとは、やるか、やらないかではないでしょうか。
巨大災害が起きるたびに、クソ忙しい被災地に総理大臣や多くの国会議員が乗り込んで売名行為をしているのをよく見かけますが、そんなことしてるヒマがあったら、政治家にしか出来ない強靭な国づくりに邁進して欲しいと思っている私です。
2026年08月01日 04:54
防衛省が公開したイオンモール熊本の内部映像を見ると、まるで福島第一原発事故でロボットが撮影した建屋内部映像のような壊れ方をしていることが分かります。福島第一原発では、水素爆発によって建屋が大きく破壊されました。一方、LPガスや都市ガスによる爆発事故は、一般的には「爆燃(ばくねん)」と呼ばれる現象です。爆轟のように衝撃波が音速を超えて伝播する現象ではなく、通常はそこまでの燃焼速度には達しないとされています。
ただし、2018年12月に発生した札幌・アパマンショップ平岸駅前店の爆発事故では、小さな不動産会社で行われていた除菌・消臭スプレー缶のガス抜き作業によって可燃性ガスが室内に充満し、大爆発が発生しました。その爆風で隣接する居酒屋まで吹き飛び、一帯に甚大な被害が及んだことは記憶に新しいところです。
この事故では、冬の北海道で窓を閉め切っていたことに加え、スプレー缶に使われていた可燃性ガスにはLPガスのような強い臭いが付けられていなかったため、誰も危険に気付くことができませんでした。密閉空間に可燃性ガスが滞留することの恐ろしさを改めて示した事故だったと思います。
あの事故を見た時、私は、「密閉空間に大量の可燃性ガスが滞留すると、爆燃であっても爆轟を思わせるほどの破壊力になることがある」ということを強く印象付けられました。
今回のイオンモール熊本の映像も、見た目の印象としては、それに近いほどの強烈な爆風だったように感じます。
テレビでは「LPガスは都市ガスより燃焼力が大きいので、飲食店ではLPガスがよく使われる」と説明している場面を見かけます。しかし、私はこの説明には少し違和感があります。
確かにLPガスは都市ガスより単位体積当たりの発熱量は大きいものの、ガス器具は使用するガスの種類に合わせて設計されています。そのため、同じ能力のガスコンロや厨房機器であれば、LPガスでも都市ガスでも調理時の火力に大きな差はありません。
飲食店でLPガスが採用される理由は、「火力が強いから」というよりも、都市ガスの供給状況や設備条件、災害時の運用などが関係しているのではないかと思います。
ガス漏れが発生した場合、LPガスは空気より重いため床付近に滞留し、都市ガスは空気より軽いため天井付近へ上昇します。そのため、ガス漏れ警報器の設置位置も異なります。また、どちらのガスにも保安上の理由から臭いが付けられています。
もし今回、建物内に爆発を起こすほど大量のガスが滞留していたのであれば、現場にはかなり強いガス臭が漂っていた可能性がありますし、警報設備も何らかの反応を示していた可能性があります。もっとも、実際に警報設備が作動したのかどうかは、現時点では公表されていません。
もちろん、今回の事故が水素爆発のような「爆轟」だったと断定することはできません。LPガスであれば通常は爆燃ですが、大量のLPガスが建物内に長時間滞留し、一斉に着火したのであれば、爆轟と見間違えるほど大きな爆圧が発生した可能性も考えられます。
商業施設は窓が少なく、気密性が高い建物が多いため、可燃性ガスが滞留しやすい条件がそろう場合があります。私は、地震が発生した時点でLPガスのバルク設備は自動的に供給が遮断されるものだと思っていました。今回、その遮断設備がどのように作動したのか、あるいは正常に作動したのかも、事故原因を解明するうえで重要なポイントになるでしょう。
昨夜、爆発のあったイオンモール熊本から約20km南のイオンモール宇城(うき)で、崩落した壁の下敷きになっている男性が発見され死亡が確認されました。7月28日の爆発があり、イオンモール宇城にも全員建物への立入禁止が出ていたのでしょうが、いくらなんでも発見が遅すぎると感じます。
現在、全国のイオンモールでは、計画されていた各種イベントの中止が次々と発表されています。理由は「抜本的な安全対策の見直しが必要」とのことですが、その意味では、他の商業施設でも同様に安全対策の見直しが必要なのではないでしょうか。
阪神・淡路大震災や東日本大震災の直撃を受けた身としては、震災発生時に被災地以外の地域が果たすべき役割は、「日常生活を続けること」だと思っています。
だからこそ、今回のような悲惨な事故が発生したことは重く受け止めるべきですが、通常営業は続けながらイベントだけを中止するという対応には、少し違和感があります。
抜本的な安全対策が必要なのであれば通常営業そのものを見直すべきでしょうし、通常営業を続けるのであれば、せっかくの夏休みイベントは実施し、その場で被災地への募金活動や支援活動を積極的に行う方が、多くの人の気持ちにも応えられるのではないかと感じています。
私たちが今すぐできることは、地震が発生した際、周囲の安全を確認したうえでガスの元栓を閉めることではないでしょうか。
一般家庭はもちろん、大型施設においてもガス遮断設備や緊急時の対応手順を改めて見直す契機となり、このような悲惨な事故が二度と繰り返されないことを心から願っています。
2026年06月08日 05:36
昨日は新国立競技場でラグビー・リーグワン決勝を観戦し、神戸製鋼コベルコスティーラーズの優勝を見せていただきました。そしてその前日には、J1リーグでヴィッセル神戸の優勝に感動しました。今シーズンは幸運にも、どちらの競技もシーズン序盤から何度か現地観戦する機会をいただき、その両チームがそろって頂点に立つ姿を見ることができたことは、本当に幸せなことでした。しかし、この週末に私の心を大きく揺さぶったのは、優勝そのものだけではありませんでした。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が神戸を襲った日です。当時26歳の私はその直撃を受けました。その衝撃は今も忘れません。そして、その日は両チームにとっても忘れることのできない日となりました。
ヴィッセル神戸は三菱自動車水島サッカー部(岡山)を前身として誕生しました。震災当日は、神戸での初練習日となるはずの日でした。しかし震災によってその船出は大きく狂い、数週間後に訪れた練習初日は、かつての拠点であった水島で迎えました。
一方の神戸製鋼ラグビー部は、黄金時代を象徴するV7達成からわずか2日後に震災直撃を受けます。多くの選手は神戸製鋼本社や練習グラウンドのある神戸市中央区から東灘区の沿岸部に住んでいたため生活に打撃を受け、練習場には震災瓦礫が集積され、練習どころではない状況になっていました。
震災から7か月後、私はイベント会社から広告代理店へ転職しました。その配属先は岡山でした。偶然にも担当することになったのは、ヴィッセル神戸のルーツである三菱自動車水島のお膝元に位置する倉敷サニータウンの販売プロモーション。
そこで私は、地域の人々にとって三菱自動車水島サッカー部がどれほど愛された存在だったのか、そして神戸への移転に対して少なからぬ喪失感があったことを肌で感じることになりました。
さらにその後、神戸ウイングスタジアム(現・ノエビアスタジアム神戸)が完成してからしばらくの間は、施設の音響業務のお手伝いをさせていただいた時期もありました。その意味では、逆の意味で神戸市民にヴィッセル神戸が受け入れられていく過程も、体感させていただきました。
神戸製鋼ラグビー部は、震災当時に私が住んでいた六甲アイランドのマンションに選手が住んでいたこともあり、車で5分の距離にある灘浜グラウンドへ何度も練習を見に行っていました。震災後、その場所に震災瓦礫が山積みとなった光景は今でも忘れることができません。
あの日、多くの人が日常を失いました。それでも神戸は立ち上がり、人々は前を向き、スポーツもまた地域とともに歩み続けました。
ヴィッセル神戸と神戸製鋼コベルコスティーラーズという2つのプロスポーツチームが神戸に根差し、それが同じ年に同時に日本一となる姿を目の前で見る機会があるとは思いもしませんでした。この週末は、さまざまな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。
震災前、沿岸部に神戸製鋼が管理運営する「マヤ・エスポート」という多目的広場がありました。広報担当には神戸製鋼ラグビー部OBの山北さんらがいらっしゃり、「小柄な選手だな」と思っていた林敏之選手が実際には驚くほど大きかったことを今でも覚えています。
また、現在ノエビアスタジアム神戸が建つ場所にあった和田岬グラウンドへ、ヤンマー(現セレッソ大阪)の釜本邦茂選手を見に行ったこともありました。ところが、お目当てだったヤンマー以上に、対戦相手のフジタ工業(現湘南ベルマーレ)が強かったことの方が印象に残っています。
スポーツは単なる勝敗ではありません。人と街の歴史をつなぎ、時には希望の象徴にもなります。私はそのことを改めて実感しました。
ヴィッセル神戸の皆さん、神戸製鋼コベルコスティーラーズの皆さん。そして震災から立ち上がった神戸の街に関わるすべての皆さん。素晴らしい感動をありがとうございました。
今年4月16日に神戸で行われたフロンターレ戦の日に、王子公園駅近くにある中学高校と一緒に過ごした同級生の藤田君が営む大阪王将へ行って来ました。ほんの数十分間の滞在ではありましたが、数十年の時空を超え、神戸という街に自分の魂の一部があることを思い出させてくれました。
今年8月8日には、母校である兵庫県立東灘高等学校の同窓会設立50周年式典が開催されるとの連絡をいただいています。これまで同窓会に足を運ぶ機会はほとんどありませんでした。しかし、この週末を経て、参加してみようかという気持ちになりました。
今はすっかり神戸から縁遠い生活をしています。それでも、神戸という街は私の人生の一部であり続けています。
神戸と縁があったからこそ、「あの日あの時、生きていて良かった」「生き続けてきて良かった」と思える今があります。
スポーツの感動をありがとう。そして、神戸の街にありがとう。
2026年01月17日 08:07
私自身は神戸で生まれ育ったと言っても3歳から17歳までいただけで、その前後も神戸どころか東京や岡山やカナダに住んでいたので、これといって思い出はありません。小・中・高と神戸の公立学校へ通いましたが子供でしたので行動半径も小さく、自宅が六甲山だったので出かけるには山を下りて阪急電車六甲駅から電車かバスに乗る必要があり、高校に入ってから三宮に行く程度でした。
ただ、両親が六甲アイランドにマンションを購入し、そこに住んでいたのですが転勤となり、猫を数匹飼っていたので当時兵庫県尼崎市の賃貸マンションに住んでいた私が、そのマンションに家賃を払って住むことになったのです。
この話しが出たのが1994年10月で12月から住み始め翌1995年1月17日に震災に遭ったという感じでした。
正直、右も左も分からない場所で震災に遭遇し、もちろん電気・ガス・水道はストップ。14階建てマンションの10階だったので、毎日水を運ぶのは無理だったのとコンビナートのガス漏れが発生して避難所生活も経験しました。
当時私はイベント会社に勤務しており、私の現場は千里阪急ホテルでのナショナル住宅産業(現パナホーム)の新春ふれ愛会という賀詞交歓会。自家用車で現場へ向かったのですが地割れに何度も落ちては大型車に引き上げてもらい阪神高速までたどりついたら倒壊していました。
奇跡的に関西デジタルホンのPRイベントをやっていたのでデジタル携帯電話が数台あり、アナログ全盛期なのでデジタル携帯だけはつながったので上司に連絡すると「こっちの現場は中止なんで神戸国際会館を見てきてくれ」と言われ方向転換。
本来はこの震災当日から神戸国際会館で坂本冬美ショーが3日間ある予定でしたが、建物が完全に倒壊しており中止決定。スタッフの皆さんは三ノ宮ターミナルホテルに宿泊されていて無事が確認でき、冬美さん本人は大阪マルビル泊だったので問題ナシということで、その日は自宅へと戻りました。
大量にお亡くなりになられている方もおられましたし、倒壊した高架道路の下敷きになったり落下したと思われる車両も見ましたし、大きな声で助けを求めている方々にも遭遇しましたが、当時の私は誰も助けませんでした。本当に心に余裕の無い27歳だったと思います。
それ以降、大きな震災があるたびにボランティアに寄せていただいてます。みなさんも明日は我が身だと思って震災への備えをよろしくお願いいたします。
毎日放送から販売されていたVHSテープがあったのでデジタル化してYouTubeにアップしました。著作権の問題があるのですが、30年以上経過しましたので、震災への啓発として共有させていただきます。
・ビデオ阪神大震災









