仕事
2026年05月21日 04:55
日本中を覆う深刻な人材不足。にもかかわらず、一般事務の有効求人倍率は0.33倍前後と、求人1件に対して約3人の求職者がいる状態です。つまり「事務をやりたい人」は大量にいるのに、「事務の席」が減っているのです。理由は単純。AIとクラウドの普及で、「人がやる必要」がなくなってきたからです。
かつて事務職は、電話対応、書類作成、データ入力、請求書発行、スケジュール調整、ファイリング、メール返信などを一手に担っていました。
私が仕事を始めた40年前はパソコンなんて無かったので、文字を打つという作業ですら「事務の女性」の仕事。コピーやFAXの送受信も同様でした。「なぜ女性なの?」と思う方も多いと思いますが、当時は実際にそうでした。それも、ほぼ若い女性で占められていたのです。
しかし現在は、誰もがパソコンを使えて当たり前。文字入力やコピー程度を事務に頼む人はいません。今や見積書や請求書の発行、押印すら、事務に頼む必要のない時代です。CRMで顧客管理し、SFAで営業管理し、見積もりから請求まではRPAによる自動化やクラウド請求管理を活用して、ミスを完全排除できるようになっています。
最初の変化は、総務経理のアウトソーシング化でした。当初はアウトソーシング請け負い企業で事務の仕事が大量に発生しましたが、技術の進歩によってその現場でも省力化が進行。さらに発注主側も自社システムを導入し、アウトソーシング自体をやめる動きが進みました。
今や「AIで十分」「営業が自分で入力すればいい」という時代です。ヤマト運輸や佐川急便の配送センターを見れば分かるように、「事務員さんがいない会社や営業所」は当たり前になっています。
連絡は携帯電話。固定電話の受電は外部コールセンターへ委託し、コールバックする形で十分。受付にはタブレットや内線電話を1台置いておけばOK。請求はクラウド化。経理や給与計算はシステムに情報を入力し、あとは税理士や社労士へ丸投げ。
さらに生成AIの登場で、「文章を書く」「議事録をまとめる」「メールを作る」「表を整理する」といった作業は、すべて人間がやる必要のない時代になりました。ホワイトカラーの定型作業が、猛烈な勢いでAIに置き換えられているのです。
Google、Amazon、Meta、Microsoftといった巨大IT企業は、ここ数年で数万人規模のレイオフ(人員削減)を実施しています。AI活用に積極的な彼らが真っ先にメスを入れたのが、こうした一般事務や管理部門の領域でしょう。逆に、高度な技術者や営業職の採用は継続しています。
OECD(経済協力開発機構)は、AIによって自動化されるリスクが高い職種が加盟国平均で27%に達すると分析。その中で「AIは反復的・定型的な業務を特に置き換えやすい」と指摘しています。これはまさに、一般事務が得意としてきた領域そのものです。
かつて一般事務は、「残業が少ない」「体力を求められない」「女性でも長く働ける」といった理由で大人気でした。しかし現在は、「誰でもできる仕事=AIや外注に置き換えやすい仕事」になってしまっています。特に生成AIは、「中途半端なホワイトカラー業務」を凄まじい速度で飲み込み始めています。
一般事務を希望する人材が溢れているということは、企業側からすれば「高学歴の若い人から選べる」状態です。結果として、年齢が上がるほど再就職が厳しい環境になっているのが現実です。
いまの事務職に求められているのは「+α」のスキルです。SNS運用、動画編集、デザイン、CAD、あるいは多言語対応といった、「事務+専門スキル」の掛け合わせが不可欠になっています。
単純入力だけをする時代は終わりつつあります。深刻な人手不足の中で「一般事務だけに応募が殺到する」という異常事態。これは単なる景気の問題ではなく、産業構造そのものがパラダイムシフトを起こしている証拠です。
AIとアウトソーシングは、まず「定型ホワイトカラー」から仕事を奪い始めました。そしてその渦中にいるのが、一般事務という職種なのかもしれません。
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2025年12月07日 05:19
私のやっているプロモーション&クリエーティブという作業領域は、時代の変化と共に劇的な変化を遂げて来ました。AIの進化によって私の仕事の大半が消えて行くと思いますので、このブログでは何回(もしかすると何十回)かに分け、これまで消えて来た人がやっていた仕事をテーマにしたパシリだった私の昔ばなしを書きたいと思います。(3)
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(2)まではお仕事が決まってからの話しでしたが、そもそもお仕事が決まる前になぜか業界人だけプレゼンと称する提案作業があります。
今なら企画書をパワーポイントで作成してカラー複合機で出力して持参しつつ、ノートPCから会議室の液晶ビジョンに投影してプレゼンでしょうが、私の若い頃はモノクロ手書きが当たり前。
一部の先進的な人はワープロ(ワードプロセッサーの略)という日本語タイプライターみたいなのを使っていましたが、そんなの使えるのはデスクの若い女の子だけってのが普通。
コピー機はありましたがカラーコピーなんてある企業はめったに無く、FAX機のある会社でも普通紙ではなくロール紙。手書きの見積書や提案書をロール紙のFAXに送るんだから読解には超能力必須。
プレゼン資料を作成するにもデザイン案も文字も全部手書き。かっこいいデザイン文字を入れたいとなれば、文字デザインをするレタリング屋さんに依頼するのですが、仕事が決まる前のプレゼン時点では発注もできません。
パソコンもフォントも無い時代にどうしていたかというと、文字見本という冊子を見ながら手書きで書き写しておりました。マジで!文字組を作っては消すの連続。もちろんそこに入れる写真や挿絵も手書きさせられながら、プレゼンラフと言われる提案用デザインを作成していました。
先輩ディレクターがラフを作成している場所につきっきりで、「“輝く素肌!”を太明朝体の縦書きで書いて」とか言われるたびに書き、「コピー機で85%から110%まで1%づつ拡大縮小して」とか言われては地道に作業。
コンビニも大して無く(当時は目指せローソン5千店というCMをやっていた)あっても24時間営業が珍しい時代。夜中3時に突然「UCC3色缶のビター買って来て!」とか頼まれたら、どこに売ってるかも分からないソレを走って探していました。
プレゼン資料が完成しても、提案前に上司確認の際に「イメージがわきにくいから参考写真や参考事例をつけろ」なんて言われたらさあ大変。検索なんて出来ないので、事務所内の雑誌を切り抜いて糊で貼ってフォトコラージュを作成。
フォトコラージュはカラー出力しないといけないので、カラー出力機のあるカメラ屋さん/文房具屋さん/製図屋さん等でプリントしてもらってました。(4へ続く)
2025年12月06日 08:01
22歳から27歳まで大阪で業界人の端くれをやらせていただいていた私ですが、売上の大半を稼がせていただいていたのは住宅&オフィスビル業界。マンション&宅地の販売企画やオフィスビルを中心とした再開発企画をやらせていただき、CM制作/映像制作/コンサート制作/店頭イベント/ディナーショー等をやりつつも、周辺の不動産価格を見つつ物件価格を決め販売計画を練るといったこともやっていました。
ちょうどその頃(1991年?)、豊洲で東京ガスの敷地が売り出されることになり、大手不動産デベロッパーの方と現地調査に来たのですが、そこで「東京の業界レベルは大阪の数十倍!」という話しを聞くことになります。
それまで芸能界や映像制作関係者からは「東京はスケールが違うからおいで」とは言われていましたが、そもそも雑誌社が東京にしか無いのでスケールは違って当たり前。ドラマだって時代劇以外は東京制作が一般的でした。
関西でタレントさんを使ってのロケと言うと、カメラを発注した先のプロダクションさんがワゴン車を出してカメラマンさん・音声さん・アシスタント(兼照明)さんが集合場所まで乗って来て、そこでディレクター/代理店担当者/私/タレントが乗って7or8人ってのが普通。
でも東京だとタレントにマネージャーがいて、さらにヘアメイクやスタイリストも付くんですよ。なんだかんだと無駄に人がやってくるので小さな撮影でもロケバス必須。ディレクターもアシスタントを何人か付けてたりして規模が大きいというより人が多すぎて関西風に慣れてる私にはウザイって感じでした。
ところが不動産デベロッパーさんのお話しは全然規模感が違い、関西での不動産市場が実需に基づくものが大半なのに対し、東京では投資筋・投機筋の資金流入が見込めるって話しなので魅力バツグン。東京転勤を会社に申し出ることになりました。
ところが、当時はジャニーという方の経営するタレント事務所が傾いていて関西に活路を見出そうとしており、関西の作曲家・作詞家への楽曲依頼や、AMラジオもある朝日放送・毎日放送へのテレビ出演等を積極的にやっていて、それのパシリも私の役割でした。
1994年には東京・恵比寿ガーデンプレイスや大阪・OAPタワー等が開業し魅力ある大型物件作業を手掛けさせていただく一方、住宅金利が史上最低を更新し続けマンション販売も活況。ジャニーの方は木村拓哉さんがトヨタRAV4のCMに出演契約が決まる等こちらも順調。
所得面でも評価いただいていたので、個人でApple社のパソコンを購入しクラリスドローやマックドローといったソフトで企画書作成。キレイな企画書が目新しかったこともありさらに企画書依頼も増加と順風満帆を超えパニックレベルで仕事が溢れかえっていました。
仕事が終わるのは22時以降が当たり前でしたが、それでも北新地や東通り商店街で深夜3時ぐらいまでは飲み歩き、そこからタクシーで神戸市東灘区の自宅まで帰るという日々。そろそろ東京転勤かなーと思っていた正月明けにその転機はやって来ました。
1995年1月17日5時46分 阪神・淡路大震災発生。住んでいた神戸はエライこっちゃになり、翌週末からSMAPのローソン全国ツアーもありましたし、2月&3月には様々な宅地やマンションの販売計画もある中での震災直撃。ここで劇的に人生感が変わる事になります。
そこから数か月後にはイベント会社から大手広告代理店へ転職し岡山支社勤務することで地方都市生活と言う新しい体験をするのですが、それを経て大阪で独立。さらに東京へ転居して20年以上が経過した今になって分かることがあります。
「東京の業界レベルは大阪の数十倍」は事実。でも関わる人数も数百倍。なので東京だと大きな案件に小さく関わることが可能です。それに対し規模の小さな都市に行けば行くほど不動産業界も広告業界も関わる人材は少なく、どんな案件でも一人で全部任せてもらえるメリットがあります。
おかげさまで大阪や岡山では大きな看板を背負って偉そうに仕事を仕切らせてもらえました。それもこれも絶対的組織の小ささの恩恵があったと思います。国際会議や博覧会やF1まで20代で仕切らせていただけたのは運が良かったとしか言いようがありません。
クソ生意気にも31歳で独立してしまいチャンスを与えてくれた皆様には迷惑をおかけしたと思います。コロナによるオリンピック延期&無観客で大借金を背負い、本来なら死にそうになってるはずですがまだ生きてます。
「東京の業界レベルは大阪の数十倍」は事実ですが、どの業界仕事をやるにせよ地方には全部を1人で仕切れるという魅力があります。ちなみに岡山ではカメラとナレーションまで自分でやったCMも制作しました。
岡崎や神戸から発信している有名インフルエンサー動画を見ていると「いい時代になったなー」と感じます。アイデアは無限大。どこに住んでいても発信は出来る。
得体のしれない夢を目指して東京へ行くぐらいなら、住んでいる場所で目の前の仕事を全部仕切らせてもらうことで人間力を育てて行くのもアリじゃないかと思っております。
最後になりましたが、私は「その仕事やりたい」と言っていただいた案件は一切ありません。諸先輩方がめんどくさいと思った話しを押し付けていただいただけです。これも感謝。
(また長文ブログになって来たので反省しております。明日からは短くします。)









