ヴィッセル
2026年06月08日 05:36
昨日は新国立競技場でラグビー・リーグワン決勝を観戦し、神戸製鋼コベルコスティーラーズの優勝を見せていただきました。そしてその前日には、J1リーグでヴィッセル神戸の優勝に感動しました。今シーズンは幸運にも、どちらの競技もシーズン序盤から何度か現地観戦する機会をいただき、その両チームがそろって頂点に立つ姿を見ることができたことは、本当に幸せなことでした。しかし、この週末に私の心を大きく揺さぶったのは、優勝そのものだけではありませんでした。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が神戸を襲った日です。当時26歳の私はその直撃を受けました。その衝撃は今も忘れません。そして、その日は両チームにとっても忘れることのできない日となりました。
ヴィッセル神戸は三菱自動車水島サッカー部(岡山)を前身として誕生しました。震災当日は、神戸での初練習日となるはずの日でした。しかし震災によってその船出は大きく狂い、数週間後に訪れた練習初日は、かつての拠点であった水島で迎えました。
一方の神戸製鋼ラグビー部は、黄金時代を象徴するV7達成からわずか2日後に震災直撃を受けます。多くの選手は神戸製鋼本社や練習グラウンドのある神戸市中央区から東灘区の沿岸部に住んでいたため生活に打撃を受け、練習場には震災瓦礫が集積され、練習どころではない状況になっていました。
震災から7か月後、私はイベント会社から広告代理店へ転職しました。その配属先は岡山でした。偶然にも担当することになったのは、ヴィッセル神戸のルーツである三菱自動車水島のお膝元に位置する倉敷サニータウンの販売プロモーション。
そこで私は、地域の人々にとって三菱自動車水島サッカー部がどれほど愛された存在だったのか、そして神戸への移転に対して少なからぬ喪失感があったことを肌で感じることになりました。
さらにその後、神戸ウイングスタジアム(現・ノエビアスタジアム神戸)が完成してからしばらくの間は、施設の音響業務のお手伝いをさせていただいた時期もありました。その意味では、逆の意味で神戸市民にヴィッセル神戸が受け入れられていく過程も、体感させていただきました。
神戸製鋼ラグビー部は、震災当時に私が住んでいた六甲アイランドのマンションに選手が住んでいたこともあり、車で5分の距離にある灘浜グラウンドへ何度も練習を見に行っていました。震災後、その場所に震災瓦礫が山積みとなった光景は今でも忘れることができません。
あの日、多くの人が日常を失いました。それでも神戸は立ち上がり、人々は前を向き、スポーツもまた地域とともに歩み続けました。
ヴィッセル神戸と神戸製鋼コベルコスティーラーズという2つのプロスポーツチームが神戸に根差し、それが同じ年に同時に日本一となる姿を目の前で見る機会があるとは思いもしませんでした。この週末は、さまざまな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。
震災前、沿岸部に神戸製鋼が管理運営する「マヤ・エスポート」という多目的広場がありました。広報担当には神戸製鋼ラグビー部OBの山北さんらがいらっしゃり、「小柄な選手だな」と思っていた林敏之選手が実際には驚くほど大きかったことを今でも覚えています。
また、現在ノエビアスタジアム神戸が建つ場所にあった和田岬グラウンドへ、ヤンマー(現セレッソ大阪)の釜本邦茂選手を見に行ったこともありました。ところが、お目当てだったヤンマー以上に、対戦相手のフジタ工業(現湘南ベルマーレ)が強かったことの方が印象に残っています。
スポーツは単なる勝敗ではありません。人と街の歴史をつなぎ、時には希望の象徴にもなります。私はそのことを改めて実感しました。
ヴィッセル神戸の皆さん、神戸製鋼コベルコスティーラーズの皆さん。そして震災から立ち上がった神戸の街に関わるすべての皆さん。素晴らしい感動をありがとうございました。
今年4月16日に神戸で行われたフロンターレ戦の日に、王子公園駅近くにある中学高校と一緒に過ごした同級生の藤田君が営む大阪王将へ行って来ました。ほんの数十分間の滞在ではありましたが、数十年の時空を超え、神戸という街に自分の魂の一部があることを思い出させてくれました。
今年8月8日には、母校である兵庫県立東灘高等学校の同窓会設立50周年式典が開催されるとの連絡をいただいています。これまで同窓会に足を運ぶ機会はほとんどありませんでした。しかし、この週末を経て、参加してみようかという気持ちになりました。
今はすっかり神戸から縁遠い生活をしています。それでも、神戸という街は私の人生の一部であり続けています。
神戸と縁があったからこそ、「あの日あの時、生きていて良かった」「生き続けてきて良かった」と思える今があります。
スポーツの感動をありがとう。そして、神戸の街にありがとう。









