メディア
2026年09月02日 02:44
まだ世の中の多くの人々が、テレビ報道を見ていた時代のことです。1990年11月に雲仙・普賢岳で噴火があり、その後いったん小康状態となっていたのですが、翌1991年2月には新たな火口で噴火が始まり、春になると活動はさらに活発化。5月20日には溶岩ドームが出現し、24日には火砕流が発生します。
ヘリの空撮映像では、山頂付近に巨大な溶岩ドームが形成されていることがはっきりと見え、その溶岩ドームが成長を続けていることも分かりました。火砕流が民家近くまで迫るようになり、住民には避難勧告が出されました。
ところが、この避難勧告とは逆に、危険な地域にとどまった人々がいました。メディア関係者や火山学者・研究者です。彼らは火山活動の様子を取材・観測するため、現場に入り続けていました。
1991年6月3日午後4時8分、噴火活動が続いていた雲仙・普賢岳で大規模な火砕流が発生しました。ちょうど夕方のニュースが放送されている時間帯で、とんでもない量の煙がモクモクと立ち上がる様子がテレビで報じられていました。
全身が灰色から黒になった状態で逃げて来た消防団員が映し出されました。誰もが煙や灰に包まれて真っ黒になったのだと思ったかもしれませんが、実際には猛烈な速度で押し寄せた高温の火山ガスや火山灰によって、全身に重いやけどを負った状態でした。
今では考えにくいのですが、焼け焦げた人、燃える車両、病院へ搬送される全身に大やけどを負った人々など、凄惨な状況が刻一刻とテレビで次々と報じられました。
この大火砕流による死者・行方不明者は43人。報道関係者16人、消防団員12人、警察官2人、火山学者3人、タクシー運転手4人、地元住民などが犠牲になりました。
当時、私は大阪のイベント会社で仕事を始めて1年ほど。テレビ取材の仕事もしていましたが、命を懸けてまで撮影するような場面に遭遇したことはありませんでしたし、それは今もありません。
ただ、後日明らかになった経緯を知ると、どうしても疑問が残ります。「なぜ、そこにこれほど多くの人がいたのか」ということです。
すでに住民には避難勧告が出されていました。ところが、報道関係者は避難勧告区域内で取材を続けていました。さらに、避難して無人となった民家の電話や電源を一部の報道関係者が無断で使用していたことまで発覚します。
そのため、留守宅を警戒する消防団員が避難勧告区域内へ戻り、区域内に残っている報道関係者などに避難を呼びかけるため、警察官も現場へ入ることになりました。
そして大火砕流が発生し、報道関係者だけでなく、消防団員12人、警察官2人、報道関係者を運んでいたタクシー運転手まで犠牲になりました。
私は、命を落とした報道関係者を非難したいわけではありません。ただ、誰が、なぜ避難勧告が出されている地域で取材を続けるという判断をしたのか。なぜ住民が避難した場所に入り続け、その結果として消防団員や警察官まで危険な場所にいなければならなかったのか。そこは検証されるべきだと思っています。
噴火は天災です。しかし、この43人の犠牲については、すべてを「天災」という言葉だけで片付けてよいのだろうかと思うのです。人災という側面が、あまりにも大きかったように感じます。
さらにこの大火砕流が発生した際、眉山の中腹にあるテレビ中継所へ避難したNHKなどの取材陣・スタッフら10人が一夜を過ごし、翌6月4日にヘリコプターで救助されています。
もちろん、助けを必要としている人がいれば自衛隊や救助隊が救助するのは当然です。しかし、大災害が発生し、多くの行方不明者がいる中で、なぜ取材のために現地へ入った人たちを救出するため、さらに別の人たちが危険を冒さなければならなかったのか。そこにも疑問を感じます。
翌6月4日には、陸上自衛隊が極めて危険な被災現場へ入り、遺体の収容などにあたりました。現場は「原爆が投下された直後の長崎の写真のようだった」と表現されるほど凄惨な状態でした。黒く焼けた三つの塊を収容したところ、検視すると実際には4人の遺体だったという話も残っています。
人間の身体であることすら判別できない。それほどの熱に襲われたわけです。しかも、自衛隊が活動している最中にも火砕流が発生し、救助・収容する側まで危険にさらされています。
もちろん、現在の知識だけで35年前の判断を批判することはできません。当時は火砕流の恐ろしさが、現在ほど一般に理解されていなかったという事情もあります。
それでも、避難勧告は出されていました。住民には「危険だから避難してください」と言っている場所です。そこへ取材のために入れば、消防団が警戒する。警察官が避難を呼びかける。事故が起これば消防や自衛隊などが救助に向かう。孤立すればヘリコプターによる救助まで必要になります。
つまり、災害現場での「自己責任」は、自分一人では完結しないのです。これは現在にも通じる話です。
台風の海での撮影。増水した川や氾濫している場所の撮影。震災に見舞われた地域の撮影。そんな写真や動画が、危険を冒してまで本当に必要なのでしょうか。
災害現場への取材を、取材者本人やメディア側スタッフは「自己責任」と考えているのかもしれません。しかし、そこで事故が起きれば、誰かが助けに行かなければなりません。そして、その救助する人にも家族があります。
雲仙・普賢岳大火砕流から35年。亡くなられたすべての方々のご冥福を心よりお祈りいたします。そのうえで、43人という犠牲者の数字だけではなく、「なぜ、そこに43人もの人がいたのか」というところまで検証し、後世へ伝えていく必要があるのではないでしょうか。
報道の自由も、災害を記録することも大切です。しかし、それ以上に優先されなければならないものは、人の命なのではないかと思っている私です。
最後になりましたが、この大火砕流で犠牲となられたすべての皆さまに、改めて心よりお悔やみ申し上げます。
2026年08月07日 06:20
7年前、私は「新聞の未来」についてブログを書きました。それは、近所の方から「小学生の子供が学校から古新聞を持参しろと言われたので分けて欲しい」というものでした。その方は、「お友達も困ってるから多めに欲しい」と言っていました。つまり、その方が新聞を購読していないだけでなく、同級生の各家庭も同様だったということになります。その時期から、すでに周囲から新聞購読者が劇的に減っていたのかもしれません。
広告代理店に勤務していた25年以上前の新聞メディアは超人気で、私は通販企業のお得意様を受け持つ営業として、読売新聞や朝日新聞をはじめとする各紙のテレビ面の確保に四苦八苦しておりました。それほど人気メディアだったわけです。
実際に広告が掲載されると、早朝から注文の電話が鳴り、広告効果も相当なものがありまして、たまに掲載予定日を間違えたりすると、コールセンターにいる全受注スタッフの方々から総攻撃を受けたりすることもありました。つまり広告主側の期待度も高かったわけです。
今も通販クライアント様のお手伝いをさせていただくことはありますが、現在の主戦場は完全にネットです。主要4メディアと言われたテレビ・ラジオ・新聞・雑誌は、明らかにその存在感が低下しているというのが実情です。
2025年には、朝日新聞が土日祝の夕刊を休止しました。同じ頃、産経新聞は夕刊自体を廃止しました。この年は夕刊フジの休刊もあり、地方紙も含めると、結構な数の新聞社が様々なリストラクチャリングに入って行きました。
今回、産経新聞が「2026年11月末で東北6県での紙の新聞発行を休止」すると発表しました。用紙代や輸送費の高騰などが理由とされていますが、東北の読者は今後、電子版が中心になります。取材網は維持されるとのことですが、毎朝新聞が自宅に届くという当たり前の日常は終わりを迎えます。
新聞社は、自前で取材して記事を書き、自前の印刷所で印刷し、自前のネットワークで新聞を個別家庭や企業まで送り届け、自前で集金までやるという、民間放送局とは全く異なる手法でメディアを構築していました。
新聞社同士は長年ライバルとして切磋琢磨し、朝刊のスクープを競い、それぞれが自社の新聞を自前のネットワークで送り届けることに誇りを持っていました。
ところが今は、複数の新聞を配達する販売店も少なくありません。新聞社が、会社の垣根を越えて「一緒に届けてもらう」時代になったという事実に、私は時代の流れを感じずにはいられません。
私は新聞業界の人間ではありません。それでも、広告業界で長く仕事をしてきた人間として、新聞には特別な思いがあります。新聞広告を作り、折込チラシを企画し、発行部数や到達率を真剣に考えていた時代がありました。
何十年間もの間、朝インクの匂いがする新聞を広げることが、一日の始まりでした。朝は駅の売店でスポーツ紙を買い、帰宅時は日刊ゲンダイや夕刊フジといったタブロイド紙を買うのも当たり前のことでした。
思えばいつからそんな日常が消えてしまったのでしょう。まだ紙の新聞を配達してもらっている私ですが、その紙は自宅ポストからゴミ箱へ直行しているのが実情です。なぜなら朝5時にはスマホで読める電子版ですでに読み終わっているから。6時に届く紙の新聞を開ける習慣は無くなってしまいました。
もちろん時代は変わります。電子版へ移行すること自体を否定するつもりはありません。それでも、長年親しまれてきた新聞の販売エリアが縮小され、夕刊が姿を消し、配達網までも維持できなくなっていくニュースを目にすると、どこか胸が締め付けられる思いになります。
新聞がなくなるということは、単に一つのメディアが減るという話ではありません。それは、日本の情報文化や地域社会を支えてきた仕組みが、一つずつ静かに姿を消していくということでもあるのではないでしょうか。
7年前に書いた記事では、「新聞がなくなる日が来るのだろうか」と半ば未来の話として考えていました。しかし今、その未来は確実に近づいています。便利さと引き換えに、私たちは何を失おうとしているのか。そんなことを、産経新聞東北撤退のニュースを見ながら、改めて考えさせられました。
阪神淡路大震災の当日や翌日も、電気もガスも水道も止まっていたにもかかわらず、朝刊は届けられました。エレベーターが動かないため、新聞を取りに10階から1階まで階段を往復したのですが、それも苦ではないほど、苦しい状況の中で唯一の情報源として届く新聞は、喜びであり感動でした。
テレビは停電で映らず、インターネットもスマートフォンもない時代です。被害状況や交通情報、支援の動き、行政からのお知らせまで、それらを知る手段は新聞しかありませんでした。極限状態の中で届けられた一部の新聞には、「ここまで届けてくれたのか」という感謝の気持ちしかありませんでした。
震災発生当時、神戸三宮にあった神戸新聞本社は全壊し、新聞発行の危機に直面しましたが、災害発生時の協定に基づき、京都新聞の協力を得て当日の夕刊ですら休むことなく発行を続けました。この時ほど新聞メディアの持つ底力の凄さを感じたことはありません。
だからこそ、私は新聞という存在に特別な思いがあります。
時代の流れの中で、紙から電子版へ移行することは避けられないのでしょう。それでも、何十年にもわたって日本の情報インフラを支え、災害時には命をつなぐ情報を届け続けてきた新聞という文化が、静かにその役割を終えようとしていることには、やはり寂しさを覚えます。
新聞が消えていくことは、一つの企業の問題ではありません。それは、日本人の暮らしの中にあった一つの文化が幕を閉じようとしているということなのかもしれません。
その日が来るまで、私は紙の新聞を購読し続けようと思います。









