サッカー
2026年07月01日 07:03
先日も、FIFAワールドカップ韓国代表の監督や選手が、韓国大統領や国民から厳しい批判を受けていることについて少しブログに書かせていただきましたが、あれから数日経ったので、もう少し書かせてください。韓国サッカー界を代表するレジェンドで、圧倒的な知名度を誇るホン・ミョンボ監督が、今回のFIFAワールドカップ一次リーグ敗退の責任を取る形で退任しました。韓国では、まるで敗退の主犯であるかのような扱いを受けているようです。
韓国では、日本のJリーグより10年早い1983年に、プロ2チームと実業団3チームによってアジア初のプロリーグがスタートしました。1987年には全クラブを地域密着型とし、現在のリーグ戦の基礎となるホーム&アウェー方式を採用するなど組織改編を実施。名称も「Kリーグ」となりました。
韓国代表が世界の強豪国A代表と定期的に親善試合を行うようになったのもその頃です。一方、当時の日本代表は、世界の代表チームと戦う機会すら稀で、キリンカップサッカーも日本代表対海外クラブチームという組み合わせが大半でした。
1988年にはソウルオリンピックが開催され、サッカー競技は韓国の5都市、6スタジアムで行われました。韓国代表は1次リーグ敗退ながらも存在感を示し、今後の躍動を予感させる大会となりました。ちなみに日本代表はアジア最終予選3位で、本大会に出場できていません。
1990年代に入ると、韓国サッカー界にはスター選手が次々と誕生し、世界へ羽ばたく選手も増えていきました。アジアクラブ選手権、現在のAFCチャンピオンズリーグでも韓国勢が次々と優勝を果たし、国際的な地位を確立。1986年以降は、FIFAワールドカップ出場も常態化していきます。
ここまで読んでいただくと分かると思いますが、日本のJリーグは、1993年にスタートするにあたり、10年先に始まっていた韓国プロサッカーリーグの成功を大いに参考にしていたと思います。
Jリーグ設立当時から各種作業に関わらせていただいていた私は、「いつか日本もワールドカップに出場できる国になればいいなあ」と思うと同時に、韓国サッカー界へ強い尊敬の念を抱いていました。
Jリーグ初期から日本へ来てくれた韓国人プレーヤーの代表格が、サンフレッチェ広島の盧廷潤(ノ・ジョンユン/노정윤)選手です。当時の広島には、現日本代表監督の森保一氏も在籍していました。
盧廷潤選手は大学卒業後、韓国プロリーグのドラフト指名を蹴って広島入りしたことで韓国国内では批判を受けました。しかし、Jリーグでトップイレブンに選ばれるなど素晴らしい活躍を見せ、日本サッカー界の底上げにも大きく貢献してくれました。
そして次にやって来たのが、ホン・ミョンボ氏です。彼は韓国プロサッカー界のスターであり、脂の乗り切った時期に欧州クラブからのオファーを蹴って日本へ来てくれました。私たち50代後半以上のサッカーファンにとって、忘れられない選手の一人です。
日本では1997年・1998年に、中田英寿選手やロペス・ワグナー選手らが在籍していたベルマーレ平塚に所属。1999年から2001年までは、酒井直樹選手や明神智和選手らが在籍していた柏レイソルに所属し、柏ではキャプテンを務めたこともあります。
2002年FIFAワールドカップ日韓大会で、日本代表は本大会出場2回目でした。それに対し、ホン・ミョンボ氏はその時点ですでに3度のワールドカップ出場経験があり、4度目の大会にはキャプテンとして参加。スペインとの準々決勝PK戦では最後のキッカーを務め、韓国をベスト4へ導く勝利のシュートを決めました。
私の本棚には今も『中田英寿・洪明甫 TOGETHER 2002ワールドカップBOOK(講談社)』があります。2002年日韓ワールドカップを前に、日本と韓国を代表する二人が「共にアジアサッカーを盛り上げよう」という思いで特集された一冊です。
当時、ホン・ミョンボ氏は韓国サッカーを象徴するレジェンドとして、日本でも中田英寿選手と並び称される存在でした。2002年ワールドカップは、まさに彼らが主役の大会だったと言っても過言ではありません。その姿を知っているだけに、今回の退任劇には複雑な思いを抱いてしまいます。
指導者としても、2012年ロンドン五輪ではU-23韓国代表を率いて、韓国男子サッカー史上初の銅メダル獲得に貢献しました。まさに韓国サッカー界とJリーグをつないだレジェンドであり、その功績は今も色褪せることはありません。
今や韓国代表の大半は、日本代表と同様にヨーロッパを中心に世界で活躍する選手たちです。かつて主力だったJリーガーやKリーガーは少数派となりました。そうした世界トップレベルでプレーするスター選手たちをまとめ上げることは、監督にとって決して簡単な仕事ではないと思います。
それでも、韓国代表として世界を舞台に戦い、多くの実績を積み重ねてきたホン・ミョンボ氏だからこそ、韓国代表として戦う意味や、国を背負う責任、精神的な支えとなる部分を選手たちへ伝えることは十分にできたはずです。
韓国代表としてFIFAワールドカップの舞台で戦ってきた監督や選手たちは、韓国という国の素晴らしさを世界へ発信してきた、まさに国の財産とも言える存在です。
それにもかかわらず、帰国時のセレモニーもなく、国のスターである代表監督が引責辞任のような形で退任することになった今回の流れには、少し違和感を覚えます。
スポーツの世界では、勝負の結果に責任が伴うことは当然です。しかし、それまで積み重ねてきた功績や、その人が国や競技にもたらした価値まで否定されるべきではありません。ホン・ミョンボ氏は、選手としても指導者としても韓国サッカーの歴史を築いてきたレジェンドです。だからこそ、敗戦の責任を問うことと、その功績に敬意を払うことは別の話ではないでしょうか。
輝かしい韓国サッカー界の歴史があるからこそ、「勝てば英雄、負ければ全否定」というスポーツ文化ではなく、長年にわたり国のために戦ってきた人たちへ感謝と敬意を忘れない文化が根付くきっかけになればいいな――そんなことを感じた今回のワールドカップでした。
日本サッカー界は、これまで韓国サッカー界から数多くの学びと気づきをいただきながら発展してきました。韓国のプロ化があったからこそ、日本もプロ化を急ぎました。
そして1993年のJリーグ開幕とともに、キリンカップサッカーが各国代表同士が対戦する大会へと進化。日本サッカー界がプロ化の意義を本当の意味で実感し始めた時代でもありました。
最後になりましたが、サッカーを一つの文化として根付かせようと努力を続けてこられた韓国と日本、両国のすべての関係者の皆様に心から感謝申し上げます。
このブログは、誰かを責めたり批判したりするために書いたものではありません。これからも日韓両国のサッカー界が互いに高め合いながら発展し、多くの人に夢と感動を届け続けてくれることを願っています。今回も素晴らしい感動をありがとうございました。
2026年06月29日 05:22
今回のサッカーワールドカップ前、韓国代表には大きな期待が集まっていました。アメリカ開催ということで、現地には巨大な韓国系コミュニティがあります。ロサンゼルス、ニューヨーク、ニュージャージー、テキサスなどには多くの韓国系アメリカ人が暮らし、韓国代表にとっては「完全なアウェー」ではなく、むしろ大応援団を期待できる大会でもありました。
さらに今大会では、BTSが決勝のハーフタイムショーに出演することも発表されていました。サッカーだけでなく、K-POP、韓国文化、在米韓国人社会まで含めて、韓国にとっては国を挙げて盛り上がれる舞台だったわけです。
ところが結果は、まさかの1次リーグ敗退。
直前までの熱狂とは対照的に、選手たちはひっそりと帰国し、解団式も行われず、韓国国内では批判が一気に噴き出しました。しかも驚くべきことに、大統領までが代表チームやサッカー協会の運営に苦言を呈し、政府による調査を求める事態にまで発展しています。
ここが日本との大きな違いだと感じます。
日本代表がワールドカップで1次リーグ敗退したとしても、総理大臣が「なぜ負けたのか」と日本サッカー協会に苦言を呈し、政府が調査に乗り出すような光景は、ちょっと想像できません。もちろん批判は出るでしょう。監督交代論も出るでしょう。でも、それはあくまでサッカー界とメディアとファンの中での話です。
韓国の場合、代表チームは単なるスポーツチームではなく、国家の威信や国民感情と強く結びついているように見えます。国からの支援、公的資金、協会人事、政治との距離感。そういったものが日本よりも近いため、敗退が「サッカーの失敗」ではなく「国の失敗」のように扱われてしまうのかもしれません。
一方の日本サッカー協会は、スポンサーや放映権、民間企業の支援を中心に運営され、政治とは一定の距離を置いています。だからこそ、負けた時も責任を問う相手は監督や協会であり、政府ではありません。
同じワールドカップでも、国によって代表チームの背負うものはまったく違う。韓国代表の敗退に伴う騒動を見ていると、サッカーの勝ち負け以上に、その国の政治、メディア、国民感情、そしてスポーツ団体のあり方が見えてくる気がします。
韓国代表の1次リーグ最終戦の朝は、「引き分けでも決勝トーナメント進出」と大きな期待に包まれ、韓国中が大騒ぎになっていました。だからこそ、敗退した時の落差も大きかったのでしょう。
もちろん、勝負は時の運です。どんな強豪国でも勝つ日もあれば負ける日もあります。スポーツは結果がすべてと言われる世界ですが、その結果だけで選手やコーチ、監督、さらには家族にまで過度な批判が向けられるような社会は、決して健全とは言えません。
敗れた選手たちは誰よりも悔しい思いをしています。その努力や挑戦まで否定されるようなことがあってはならないと思います。
日本でも韓国でも、スポーツを純粋に楽しみ、勝者を称え、敗者にも敬意を払える。そんな文化が少しずつ広がっていけばいいのになあと、今回の騒動を見ながら思っている私です。
2026年06月08日 05:36
昨日は新国立競技場でラグビー・リーグワン決勝を観戦し、神戸製鋼コベルコスティーラーズの優勝を見せていただきました。そしてその前日には、J1リーグでヴィッセル神戸の優勝に感動しました。今シーズンは幸運にも、どちらの競技もシーズン序盤から何度か現地観戦する機会をいただき、その両チームがそろって頂点に立つ姿を見ることができたことは、本当に幸せなことでした。しかし、この週末に私の心を大きく揺さぶったのは、優勝そのものだけではありませんでした。
1995年1月17日。阪神淡路大震災が神戸を襲った日です。当時26歳の私はその直撃を受けました。その衝撃は今も忘れません。そして、その日は両チームにとっても忘れることのできない日となりました。
ヴィッセル神戸は三菱自動車水島サッカー部(岡山)を前身として誕生しました。震災当日は、神戸での初練習日となるはずの日でした。しかし震災によってその船出は大きく狂い、数週間後に訪れた練習初日は、かつての拠点であった水島で迎えました。
一方の神戸製鋼ラグビー部は、黄金時代を象徴するV7達成からわずか2日後に震災直撃を受けます。多くの選手は神戸製鋼本社や練習グラウンドのある神戸市中央区から東灘区の沿岸部に住んでいたため生活に打撃を受け、練習場には震災瓦礫が集積され、練習どころではない状況になっていました。
震災から7か月後、私はイベント会社から広告代理店へ転職しました。その配属先は岡山でした。偶然にも担当することになったのは、ヴィッセル神戸のルーツである三菱自動車水島のお膝元に位置する倉敷サニータウンの販売プロモーション。
そこで私は、地域の人々にとって三菱自動車水島サッカー部がどれほど愛された存在だったのか、そして神戸への移転に対して少なからぬ喪失感があったことを肌で感じることになりました。
さらにその後、神戸ウイングスタジアム(現・ノエビアスタジアム神戸)が完成してからしばらくの間は、施設の音響業務のお手伝いをさせていただいた時期もありました。その意味では、逆の意味で神戸市民にヴィッセル神戸が受け入れられていく過程も、体感させていただきました。
神戸製鋼ラグビー部は、震災当時に私が住んでいた六甲アイランドのマンションに選手が住んでいたこともあり、車で5分の距離にある灘浜グラウンドへ何度も練習を見に行っていました。震災後、その場所に震災瓦礫が山積みとなった光景は今でも忘れることができません。
あの日、多くの人が日常を失いました。それでも神戸は立ち上がり、人々は前を向き、スポーツもまた地域とともに歩み続けました。
ヴィッセル神戸と神戸製鋼コベルコスティーラーズという2つのプロスポーツチームが神戸に根差し、それが同じ年に同時に日本一となる姿を目の前で見る機会があるとは思いもしませんでした。この週末は、さまざまな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。
震災前、沿岸部に神戸製鋼が管理運営する「マヤ・エスポート」という多目的広場がありました。広報担当には神戸製鋼ラグビー部OBの山北さんらがいらっしゃり、「小柄な選手だな」と思っていた林敏之選手が実際には驚くほど大きかったことを今でも覚えています。
また、現在ノエビアスタジアム神戸が建つ場所にあった和田岬グラウンドへ、ヤンマー(現セレッソ大阪)の釜本邦茂選手を見に行ったこともありました。ところが、お目当てだったヤンマー以上に、対戦相手のフジタ工業(現湘南ベルマーレ)が強かったことの方が印象に残っています。
スポーツは単なる勝敗ではありません。人と街の歴史をつなぎ、時には希望の象徴にもなります。私はそのことを改めて実感しました。
ヴィッセル神戸の皆さん、神戸製鋼コベルコスティーラーズの皆さん。そして震災から立ち上がった神戸の街に関わるすべての皆さん。素晴らしい感動をありがとうございました。
今年4月16日に神戸で行われたフロンターレ戦の日に、王子公園駅近くにある中学高校と一緒に過ごした同級生の藤田君が営む大阪王将へ行って来ました。ほんの数十分間の滞在ではありましたが、数十年の時空を超え、神戸という街に自分の魂の一部があることを思い出させてくれました。
今年8月8日には、母校である兵庫県立東灘高等学校の同窓会設立50周年式典が開催されるとの連絡をいただいています。これまで同窓会に足を運ぶ機会はほとんどありませんでした。しかし、この週末を経て、参加してみようかという気持ちになりました。
今はすっかり神戸から縁遠い生活をしています。それでも、神戸という街は私の人生の一部であり続けています。
神戸と縁があったからこそ、「あの日あの時、生きていて良かった」「生き続けてきて良かった」と思える今があります。
スポーツの感動をありがとう。そして、神戸の街にありがとう。
2025年11月23日 09:00
他のサイトやスポーツ紙もすでに同様のことを書いているのであえて書かせていただきます。昨日は第105回天皇杯決勝が国立競技場で開催されました。ただ6万人以上入るスタンドに、観客は4万人以下という状況でした。そもそも天皇杯決勝は元日の1月1日に行われるのが当たり前でした。ただ、Jリーグ各チームは1月下旬にキャンプインするため元日決勝は厳しいとJリーグ&選手会が日本サッカー協会に持ち掛け、ではそうしましょうとなったわけです。
ただ、せっかく定番化していた元日決勝を失うことは、サッカーというコンテンツを正月に見せるチャンスを失うことであり、プロ野球が絶対に試合出来ない時期であり、高校サッカーや高校ラグビーの試合開催中に元日決勝ができる天皇杯の意味を軽んじた影響は、サッカーというスポーツ全体の注目度を押し下げる方向に向かったと思っています。
私はチケットが大量に売れ残ってるとの話しを受けて現地へ寄せていただきましたが、神戸側はゴール裏であっても満員では無く、上層スタンドもガラガラ。そもそも陸上競技のトラックがあるサッカー場はフィールドがスタンドから遠いので盛り上がらないのに観客が少ないので寂しい感じ。それでも両軍とも迫力ある試合と応援を見せてくれ、大変感銘を受けました。
私は天皇杯はJリーグ&JFA以外のトーナメント戦と、Jリーグ&JFAだけのトーナメント戦をやって、その両頂点が対決するような仕組みに変えるなどの工夫によってプロ選手の負担を減らしつつも元日決勝でサッカーを広く人々に見せる努力をすべきだと考えてました。
来年度は天皇杯決勝を元日に戻すらしいですが、今さら地上波でサッカーを流したところで年末年始に地上波なんて見る人は激減しているわけで、この前倒し決勝をやってきた数年間は、日本サッカー界にとってもったいない期間だったような気がします。
また天皇杯決勝戦が熱狂の中で開催される日が来ることを心から願っております。
最後になりましたが、優勝されたFC町田ゼルビアの選手・関係者・サポーターの皆さんおめでとうございます。また準優勝となったヴィッセル神戸の選手・関係者・サポーターの皆さんも素晴らしかったです。
両チームともAFCチャンピオンズリーグで忙しく海外遠征へと旅立ち、試合後にはまた30日のJリーグ公式戦そして12月の最終戦と忙しい日々が続くと思いますが、選手の皆さんは引き続き素晴らしいプレーを、サポーターの皆さんは素晴らしい応援を頑張ってください。このたびは感動をありがとうございました。









