昔話

2026年09月07日 05:50

ChatGPT Image 2026年9月1日 07_10_41以前もこの話を書いたような気がするのですが、私は23歳ぐらいまで、あまりお米を食べる習慣がありませんでした。そして、箸を上手に使えませんでした。というのも、私が育った神戸市って、学校給食に関してはちょっと特殊な地域だったんです。

神戸市で米飯給食が週1回実施されるようになったのは1982年度(昭和57年度)。ですから、私が小学生だった時代の給食は基本的にパンでした。

しかも、食事用に出されるのは「先割れスプーン」だけ。今ではあまり見かけなくなりましたが、スプーンの先端だけがフォークのように割れていて、これ一本で「すくう」「刺す」の両方をやってしまうという、当時の学校給食ではおなじみの食器です。当然、給食で箸を使う場面なんてありません。

家での朝食も、トーストを焼いたものか卵かけご飯。トーストなら手で食べますし、卵かけご飯はフォークで食べていました。箸を使うのは、夕食にご飯が出てきた時くらい。パンやパスタの日なら、当然ながら箸の出番はありませんでした。

そして中学校に入ると、そもそも給食がありません。ただ、学校にはちょっと面白い仕組みがありました。AからDまで4種類の紙袋が用意されていて、2時間目が終わるまでに希望する袋へお金を入れておくと、昼休みになると注文した菓子パンのセットが届くというもの。

私はこれを3年間、ずーっと利用していました。つまり昼食は毎日、菓子パン。当然ながら手づかみですから、ここでも箸どころか食器そのものを使いません。

高校には学食がありましたが、ラインナップはカレー、うどん、そば、パン。お米を食べるなら基本的にカレー一択。箸を使うなら、うどんかそばを選んだ時くらいです。そんな食生活のまま高校を卒業し、その後カナダで4年ほど生活。そして23歳で日本へ帰ってきました。

就職したイベント会社で、ようやく「お米を中心とした日本の食生活」に接するようになったわけです。

とはいえ、会社は大阪。大阪で朝食と言えば、喫茶店でモーニングを食べるという習慣のある場所です。コーヒーや紅茶にトーストなどが付いてくる、名古屋や大阪ではおなじみの仕組みで、ほぼ毎日がそれ。ですから朝は喫茶店でパン。昼は会社の近所の飲食店でランチ定食。そして夜は酒場。

こうして振り返ってみると、日本へ帰ってきてからも、意外なほど「家で炊いたご飯を箸で食べる」という生活には縁がありませんでした。

大きく変わったのは、1999年に東京へ引っ越してきてからです。ここからは基本的に箸を使う生活になり、家でも結構な頻度でお米を炊くようになりました。

理由は単純で、今の奥さんが、「夕食にハンバーガーはイヤ」とか、「朝からシリアルやパンはイヤ」という人だったからです。ちなみに私は、夕食がマクドナルドでもまったく問題ありません。

そんなわけで、半ば強制的に始まった「ご飯と箸の生活」ですが、気がつけばもう27年。さすがにこれだけ長く続けていれば、箸も結構使えるようになりました。パックご飯を買ってきて電子レンジでチンして食べる、なんてことも普通にやるようになりました。

ところが最近、同年代の人たちと学校給食の話をしていて、ちょっと驚いたことがあります。私と同じ世代でも、神戸以外で育った人たちは「小学校の頃から週に何度か米飯給食があった」と言うんですよね。私の記憶とは、かなり違います。

私が通っていた小学校に給食室ができたのは、6年生の最後でした。ですから、それまではお米どころか、学校で作った温かい給食そのものを食べた記憶がありません。

先割れスプーンについては日本中で使われていたようですが、私が高校1年生だった1980年代前半に「お箸の使えない子供が激増している」ことが社会問題化し、高校で「箸の使い方」を学ぶ時間まで設定された記憶があります。今考えると、なかなか不思議な光景ですよね。

結局、神戸生活は3歳から17歳と震災のあった27歳の6ヶ月間のみ。生まれた場所でも無く、故郷と言うには、大半を六甲山の山の中で生活していたので、山を歩いた記憶が大半です。

カナダ・バンクーバー生活が4年、大阪市が5年、岡山市が4年、東京が27年。もはや東京の人といった感じでしょうか。

それでも今でも「箸とフォークのどちらが良いですか?」と聞かれるとフォークが使いやすいと思ってしまうのは変わらないのですが、60歳目前にして「使えないと思われるのカッコ悪いから箸にしよう」とカッコつけてる自分に気づくたび、「今さら何を格好つけているんだ」と思っている私です。

2026年06月08日 05:36

kobe昨日は新国立競技場でラグビー・リーグワン決勝を観戦し、神戸製鋼コベルコスティーラーズの優勝を見せていただきました。そしてその前日には、J1リーグでヴィッセル神戸の優勝に感動しました。

今シーズンは幸運にも、どちらの競技もシーズン序盤から何度か現地観戦する機会をいただき、その両チームがそろって頂点に立つ姿を見ることができたことは、本当に幸せなことでした。しかし、この週末に私の心を大きく揺さぶったのは、優勝そのものだけではありませんでした。

1995年1月17日。阪神淡路大震災が神戸を襲った日です。当時26歳の私はその直撃を受けました。その衝撃は今も忘れません。そして、その日は両チームにとっても忘れることのできない日となりました。

ヴィッセル神戸は三菱自動車水島サッカー部(岡山)を前身として誕生しました。震災当日は、神戸での初練習日となるはずの日でした。しかし震災によってその船出は大きく狂い、数週間後に訪れた練習初日は、かつての拠点であった水島で迎えました。

一方の神戸製鋼ラグビー部は、黄金時代を象徴するV7達成からわずか2日後に震災直撃を受けます。多くの選手は神戸製鋼本社や練習グラウンドのある神戸市中央区から東灘区の沿岸部に住んでいたため生活に打撃を受け、練習場には震災瓦礫が集積され、練習どころではない状況になっていました。

震災から7か月後、私はイベント会社から広告代理店へ転職しました。その配属先は岡山でした。偶然にも担当することになったのは、ヴィッセル神戸のルーツである三菱自動車水島のお膝元に位置する倉敷サニータウンの販売プロモーション。

そこで私は、地域の人々にとって三菱自動車水島サッカー部がどれほど愛された存在だったのか、そして神戸への移転に対して少なからぬ喪失感があったことを肌で感じることになりました。

さらにその後、神戸ウイングスタジアム(現・ノエビアスタジアム神戸)が完成してからしばらくの間は、施設の音響業務のお手伝いをさせていただいた時期もありました。その意味では、逆の意味で神戸市民にヴィッセル神戸が受け入れられていく過程も、体感させていただきました。

神戸製鋼ラグビー部は、震災当時に私が住んでいた六甲アイランドのマンションに選手が住んでいたこともあり、車で5分の距離にある灘浜グラウンドへ何度も練習を見に行っていました。震災後、その場所に震災瓦礫が山積みとなった光景は今でも忘れることができません。

あの日、多くの人が日常を失いました。それでも神戸は立ち上がり、人々は前を向き、スポーツもまた地域とともに歩み続けました。

ヴィッセル神戸と神戸製鋼コベルコスティーラーズという2つのプロスポーツチームが神戸に根差し、それが同じ年に同時に日本一となる姿を目の前で見る機会があるとは思いもしませんでした。この週末は、さまざまな出来事が走馬灯のように頭の中を駆け巡りました。

震災前、沿岸部に神戸製鋼が管理運営する「マヤ・エスポート」という多目的広場がありました。広報担当には神戸製鋼ラグビー部OBの山北さんらがいらっしゃり、「小柄な選手だな」と思っていた林敏之選手が実際には驚くほど大きかったことを今でも覚えています。

また、現在ノエビアスタジアム神戸が建つ場所にあった和田岬グラウンドへ、ヤンマー(現セレッソ大阪)の釜本邦茂選手を見に行ったこともありました。ところが、お目当てだったヤンマー以上に、対戦相手のフジタ工業(現湘南ベルマーレ)が強かったことの方が印象に残っています。

スポーツは単なる勝敗ではありません。人と街の歴史をつなぎ、時には希望の象徴にもなります。私はそのことを改めて実感しました。

ヴィッセル神戸の皆さん、神戸製鋼コベルコスティーラーズの皆さん。そして震災から立ち上がった神戸の街に関わるすべての皆さん。素晴らしい感動をありがとうございました。

今年4月16日に神戸で行われたフロンターレ戦の日に、王子公園駅近くにある中学高校と一緒に過ごした同級生の藤田君が営む大阪王将へ行って来ました。ほんの数十分間の滞在ではありましたが、数十年の時空を超え、神戸という街に自分の魂の一部があることを思い出させてくれました。

今年8月8日には、母校である兵庫県立東灘高等学校の同窓会設立50周年式典が開催されるとの連絡をいただいています。これまで同窓会に足を運ぶ機会はほとんどありませんでした。しかし、この週末を経て、参加してみようかという気持ちになりました。

今はすっかり神戸から縁遠い生活をしています。それでも、神戸という街は私の人生の一部であり続けています。

神戸と縁があったからこそ、「あの日あの時、生きていて良かった」「生き続けてきて良かった」と思える今があります。

スポーツの感動をありがとう。そして、神戸の街にありがとう。

2026年06月03日 02:11

910インターネットもスマホも無い時代、車やバイク好きの人々は、何の知識も無いまま「改造」や「整備」と称する無茶苦茶なチャレンジに挑んだ物でした。

若い人なら絶対に信じないと思いますが、その昔は男なら車やバイクに乗ってるのが当然。だからカー用品店も日本中どこにでもあり、そこでイロイロ調達しては、出たとこ勝負での改造に挑むのが普通と言う時代でした。

今はエアバッグが付いているので絶対にチャレンジしないであろうハンドル交換は基本メニュー。ナルディーやモモといったメーカーのハンドルを購入して、良く分からないまま純正ハンドルのセンターパッドを外し、出て来たネジを左に回して力任せにハンドルを引っ張って外し、買って来たハンドルの取り付け方が分からず途方に暮れるというのまでがセットでした。

実際には車種別のステアリングボスという部品が必要で、それを取り付けるネジを締めるにもトルクレンチという特殊な工具が必要なのですが、それも後からカー用品店の人や、詳しい(かどうか怪しい)人に教えてもらって取り付けたりしたものです。

フォグランプもDIYメニューの基本。パッと見でカッコよさそうな場所に取り付けるのですが、車両の鉄で出来ている場所に付けないといけないのを知らず、プラスチック部分に付けちゃってグラグラ明かりが揺れたり、配線にリレーやヒューズを付けるのを知らずにメインヒューズを飛ばすなどもアルアルでした。

もう一つの定番がウインドウフィルム。昔は貼るだけで窓を黒くできるフィルムが普通に売っていて、これを霧吹きで水を吹きながら取り付けるのが定番でしたが、結構な確率で失敗してグチャグチャになり、成功しても黒すぎて運転に支障が出たりとイロイロ問題がおきたものでした。

オイル交換も自分で頑張るのですが、オイルフィルターを回す方法が分からず、手持ちのペンチなどを使って頑張って回したり、ちゃんと締まらずオイル漏れする等もやったものです。

今思えば、よくあんな状態で整備していたなと思います。正しい工具も無い。正しい知識も無い。サービスマニュアルなんて持っている人は少数派。分からないことがあれば、近所の詳しい先輩やカー用品店の店員さんに聞くしかありませんでした。

もちろん失敗も山ほどしました。
・ネジをなめる
・部品を壊す
・配線を間違える
・買ってきた部品が付かない
・組み上げたら余ったネジが出てくる・・・

今ならSNSに写真を載せれば数分で正解が返ってくるようなことでも、当時は自分で考え、自分で試し、自分で失敗しながら覚えるしかありませんでした。

でも、だからこそ身についた知識もあります。どんな時にどんな工具が必要か。どの部品はどんな役割か。自分のお金と時間を使い、自分で痛い目を見た経験はなかなか忘れません。

今はYouTubeを見れば、プロ顔負けの整備動画が無料で見られます。車種ごとの交換方法も検索すればすぐ出てきますし、必要な工具まで紹介されています。昔の私が見たら夢のような環境です。その一方で、少しだけ思うこともあります。

今の若い車好きやバイク好きは、失敗する前に正解へたどり着ける時代になりました。それは素晴らしいことです。無駄な出費も減りますし、安全面でも大きなメリットがあります。

ただ、人間というのは不思議なもので、自分で失敗した経験からしか学べないこともあります。動画で見た知識と、自分でネジを折ってしまった経験は別物です。人は様々な失敗を通じて、「次はこうしよう」という知恵を磨いたのだと思ってます。

その昔はカーナビやグーグルマップなんてありませんでした。だからこそ地図を見て目的地を目指し、道を間違えるたびに何度も地図を開き直しては、必死に道を覚えたのです。

今の若い人達は道を覚えないそうです。それはきっと、最初からカーナビやグーグルマップが正解のルートを指示してくれるから。確かにゴールへは間違いなく近道ではありますが、それは「ナビの指示通りに動いた」だけであって、本当の意味での知識や知恵としては身についていないわけです。

「失敗だらけの人生こそ面白い」これは車やバイク、ドライブだけの話ではありません。仕事もそう。人付き合いもそう。お金の使い方もそう。振り返れば、私の人生も失敗だらけでした。失敗して恥をかき、怒られ、金銭的ダメージも受けました。

それでも、その失敗の積み重ねが今の自分を作っています。成功から学べることは意外と少なく、失敗から学べることは驚くほど多いものです。

だから私は、「失敗しない人生」よりも「たくさん失敗した人生」の方が価値があると思っています。もちろん同じ失敗を何度も繰り返すのは困りますが、挑戦した結果の失敗なら大歓迎です。

何もしなければ失敗もしません。でも、何もしなければ成長もしません。

昔、ハンドル交換で途方に暮れたことも、フォグランプの配線でヒューズを飛ばしたことも、オイルまみれになりながら整備したことも、今となっては笑い話です。そして、その笑い話(経験)こそが、人生の財産なのだと思います。

「失敗は成功の母」と言いますが、私は少し違う気がしています。失敗は成功のためだけにあるのではなく、人間を成長させるためにあるのだと。だからこれからも、多少の失敗を恐れずに新しいことへ挑戦していきたいと思います。

動画の予習やナビのルート案内もいいですが、たまには「出たとこ勝負」のワクワク感を味わうのも悪くありません。どうせなら、人生の最後に「あれも失敗したなあ」「これもやらかしたなあ」と笑いながら振り返れるくらい、失敗だらけの人生の方が面白いですからね。

若いみなさんはAIで失敗しない怒られない人生を送るのも楽しいかもしれませんが、積極的に失敗を楽しむことで得られる素敵な人生があるってことも伝えたいと思っている私です。

2025年04月07日 07:28

81以前にもこのブログで書きましたが、地方博ブームの火付け役となったのが神戸市の人工島ポートアイランドで開催された「ポートピア'81(正式名:神戸ポートアイランド博覧会)」でした。

当時の大人気歌手であったゴダイゴが歌う主題歌「ポートピア」は開催500日前に発表され、そこから1年半近く開催告知に使い倒され知名度抜群となった開幕直前にシングル発売。当然爆発的な売れ行きとなり各種歌番組はゴダイゴの歌う主題歌だらけに。

誰もが見たことの無い夢の人工島というだけでも魅力的なのに、アクセスは運転手のいないポートライナーで、神戸最大の繁華街「三宮(三ノ宮)」から15分程度のアクセスも人気を博し、神戸市内の人々ですら「ポートピア行くよね」「ポートピア行ったよね」が合言葉になるほど。

最初から空撮を意識して設計された各パビリオンは、UCCの館は巨大コーヒーカップの形、大阪ガスやダイエーの館は会社のマーク。南側には巨大な観覧車やジェットコースターもある遊園地が設置され、さらに中国からパンダ2頭を借りてパンダ館を配置。

西側には日米合同でのポートピアサーカスのテントが配され、その横にある神戸市立ポートアイランドスポーツセンターが団体用食事会場として提供されました。

結果は1981年3月20日から9月15日までの会期に1,610万人の入場者があり、60億円の純利益をたたき出したとされ、ここから地方博をやれば黒字と言う幻想が芽生えてしまったのも事実だったりします。

現実的な話しを書けば、関西の広告代理店は電通大阪支社(現在は関西支社)が圧倒的に強く、博報堂/大広/万年社/ADKがどうこうしても何もおきないわけで、成功した要因は大阪電通が本気になってスポンサー集めをしたからという部分が大きく影響していました。

それには1970年の大阪万博の成功体験を持つスタッフが多数在籍していたこともありますし、広告主側にも同様の体験を持つ人々が多くいたという環境もありました。

今回の大阪・関西万博は、広告主側に博覧会の成功体験はおろか記憶すら無い状況下で、電通関西支社を実行委員会側に巻き込むことが出来なかったのが最大の失敗でしょう。

広告代理店は、たった10から15%の手数料だけで実施を確約してくれるだけでなく決済も代行(現実には先払い)してくれるのです。しかも実行委員会にボランティアをジャンジャン送り込んで、課題点を先回りして消していってくれる存在です。

今回は大阪府/大阪市/大阪の財界からのスタッフで実行委員会を組織してしまった結果、すべてが後手後手に回ったと言えるでしょう。そして誰も現場を統括しないまま、リングだけをやるメガゼネコンと、各パビリオンだけをやる施工会社がバラバラに建設工事をしており、誰にも完成時期が見通せない状態となっています。

ポートピアのように60億円の黒字は無理かもしれませんが、最低限トントンにしないと大失敗となって誰かが責任を取る羽目に陥るのでしょうが、それよりも大きな課題は、この場所で万博後にIRを建設するとしている点です。

この場所、大阪市民に聞いてみても分かると思いますが「クソみたいな場所」なんですよ。そして、「他にも山ほど場所は余ってる」んですよ。例えば大阪城周辺だけでもバカほど広い土地があります。

バブル崩壊で当時の大阪府知事や市長によって府民や市民は山ほどバブル遺産を抱えるに至ったにもかかわらず、また府知事や市長によって山ほど万博遺産やIR遺産を抱えることにならないよう、是が非でも成功させてもらいたいもんだと思っております。

万博テストランは無事終了したようです。いろいろ課題はあったと思いますが、実際の開幕まであと数日ありますので修正可能でしょう。大変だとは思いますが、関係者の皆さん必死で頑張ってください。

それはさて置き、本日から交通安全週間ですので通学路で旗振りボランティアさせていただきます。安全運転へのご協力をよろしくお願い申し上げます。

2025年01月17日 07:51

jisinあれから30年が経過しました。神戸市灘区で幼稚園から高校卒業までを過ごした私は、1986年の高校卒業を最後に神戸から離れ、東京/カナダ・バンクーバー/尼崎・武庫之荘と移り住んでいました。

1994年4月に父親の人事異動があり「空き家にすると問題があるので月10万円で住んでくれ」と言われ尼崎のマンションを引き払い、神戸市東灘区にある人口島の六甲アイランドへ10月に住み始めて3か月目の震災でした。

当日は朝3時までファミコンのダービースタリオン2という育成系競馬ゲームをやっており、本来は六甲ライナーという新交通システムのアイランド北駅を5時45分に出発する電車に乗って、大阪・千里阪急ホテルでのナショナル住宅産業(現パナソニックホームズ)の新春イベントの運営をするはずでした。

朝5時にはスーツに着替えたのですが、朝日放送のおはよう天気という天気予報番組を見てから自家用車で現場へ行くこととして6時出発に変更。そして番組が始まると同時(コレ)に震災発生となりました。

14階建てのの10階で被災したのですが耐震設計なので中央部分は揺れまくるんです。ものすごい音量で金属とコンクリートがきしむ音がして、恐怖以外の何物でもなかったのですが、これが数分間続いたので強烈な状況でした。

家中の戸棚やピアノが倒れて割れた食器や戸棚のガラスが散乱してる中、まずは仕事へ行こうと階段で1階まで降りたのですが、液状化現象で身長を超えるぐらいなので2m以上も泥水が各所で噴き上げており、地面は泥水に覆われて全く見えない状態でしたが、自家用車で走り出してしまいました。

ただ、その地面は大量の地割れが発生しており、途中で3回も地割れに落下して走行中の大型トラックに引き上げてもらって六甲大橋へ。そこから見えたのは乗ろうとしていた電車の線路が海中に落下して釣り下がった状態になっている車両。ヒエー!と思いながら車でなんとか島の外に出ました。

通常なら魚崎インターから阪神高速道路に乗るのですが、インターがかなり崩れて左側に傾斜していたので、高速道路の下にある43号線を走って東に進むと、そこに出てきたのは左側に横倒しになった高速道路でした。

引き返して北へ向かうと阪神電車の線路が崩れて車両ごと落下していたり、大きな病院が崩れていて中から必死に入院患者を出そうとしている方がいたり、まさに地獄絵巻ではありました。

偶然にもアナログ携帯とデジタル携帯を両方持っていたので、上司との連絡はつく状況で、千里阪急へ行けないことを伝えると、同じ日から神戸国際会館で3日間開催予定だった神戸市教職員組合主催の坂本冬美コンサートのスタッフが三宮ターミナルホテルに宿泊しているので見に行ってくれと言われました。

そこで見た神戸国際会館は地上8階建ての建物が完全に崩れ去っておりコンサートどころではない状態。三宮ターミナルホテルへ行くと舞台監督さんが状況を把握しておられ、冬美さんは大阪のマルビルに宿泊していて問題ナシ。他スタッフも全員無事で自力で脱出するので大丈夫ですとの言葉をいただき、朝7時すぎに一旦仕事を離れることができました。

これが当日の起床から2時間の出来事です。全く心の準備ができておらず、助けてと叫ぶ声が各所から聞こえていたのに誰も助けませんでした。本当に悔いております。今のように震災が発生すると物資を届けたりボランティアに行くようになったのは、被災時の反省が強くあります。

明日は我が身。自分が生きていれば即救助活動。そう思って多くの方々が次の震災時に向けて準備し、1人でも多くの方が助かることを祈っております。

2018年09月25日 06:30

1e2150b3.jpg「CM制作とか映像の仕事を結構手掛けてました」って言うと相当なレベルで驚かれるのですが、それどころか番組制作や企業PR映像もやってました。今でこそ現場に出ませんが、昔はかなりの数をこなしてました。

やってると言っても大手広告代理店のクリエーターみたいに、大手プロダクションに依頼して、自分は一部だけやってるんみたいなんじゃないですよ。自分でシナリオや絵コンテ書いて映像集めて編集してました。ナレーションまでやってる作品も多数あります。

その中でも、岡山ビブレさんの仕事は懐かしい思い出です。今はなきビブレですが、20年前は中四国だけでも岡山・米子・宇多津・高松と4店舗あり、年に2回のCM制作をさせてもらってました。

友人にディレクター兼カメラマンを依頼して、同僚社員の奥さんに出演してもらったこともありました。と言っても素人じゃないですよ。ディレクター兼カメラマンはMBS企画の方、同僚社員の奥さんは直前までイエローキャブ所属のモデルさんでした。

31歳まではカナダ時代も含め相当な数をこなしました。月に3本以上はやってましたねえ。もちろん本気でテレビで流すCMや番組です。ちゃんとやってました。考える間もなく次々に仕事がやってくるので、ヒーヒー言いながらこなしてました。

今や映像の仕事は年に2本程度。結婚式ビデオとかボランティア作業はまだまだ相当な本数やりますが、本気で仕事としてやるのは年2本が限界です。もう若くないので、若い人の仕事にサポートで入る機会ばっかりですけどね。

エス・バイ・エルマンション長浜はカメラもやった作品です。ゴールデンウイークの撮影だったので、あの大きな放送用カメラと三脚等を一人っきりで電車で運んで、現地でタクシーに乗って撮影して回りました。カメラはSONY BVW400、三脚はVision10です。

昔は画面上に入れる文字を「スーパー」と呼んで、文字サイズとフォントを選んで出力屋さんで紙焼きにしてもらう必要がありました。来る日も来る日も原稿書いてましたよ。ロールスーパーは、そのスーパーが巻いてあるものだったんですよ。一文字間違ってもアウトって厳しい作業でした。

今も肩乗せのテレビカメラやスタジオカメラを操作する機会がありますが、大抵はビックリされます。とくにうちのスタッフにね。まあ分からないでもないですが、いちおう生放送の競輪中継までやってましたから、素人ではありません。

毎日時間に追われながら「必死」に「本気」で「楽しんで」やってました。1日収録して夕方から素材を編集して夜中からナレーション入れて早朝完成なんて作業も大量にありましたが、そこから焼肉たべに行って朝から出社なんてのも普通でした。

働き方改革が叫ばれる昨今ですが今の映像現場は分業制なんでしょうか?

趣味でやってる人は、今も自分でシナリオ書いて、カット割りして、自分の車に機材を積んで行って、自分で撮影して編集して音楽つけてナレーション入れてると思います。

ただプロと決定的に違うのは「作品の場が世界」ってこと。昔は地上波テレビ局や映画のメジャー作品が最高の舞台で、アマチュア映像作家が披露する場所なんてほとんどありませんでしたが、今はYouTubeで世界に公開できます。毎日更新のユーチューバーも増えましたよね。

世界が舞台だと思って信念もって情熱傾けてるユーチューバーに、国内限定作業でヒーヒー言ってるプロの映像屋さんたちは勝てるんですかねえ。

「若いうちの苦労は買ってでもしろ」はウソだと思います。若いうちの苦労は長続きしません。「若いうちは目の前のことに熱中しろ」だと思ってます。金や名誉は無視して熱中したほうがいい。熱中した体験は身につきます。

だからこそ、政治や大企業が若い人の仕事に熱中できる環境を奪ってる昨今の動きが心配です。寝る間もなく仕事させられたんじゃない。寝る暇を惜しんで仕事に没頭してたんです。そういう環境は今後も残してあげて欲しいなーって思ってます。

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