2026年07月20日 05:42

訃報)伏見俊昭選手(競輪) レース中の事故にて 享年50歳

fushimi競輪界を代表する選手の一人である伏見俊昭選手が、7月18日に松阪競輪場で行われた第12レースで落車し、昨日19日午前10時15分、三重県松阪市内の病院で亡くなったことが発表されました。50歳でした。

報道によると、レース中に落車した選手を避けようとした際、バンク外側の金網に激突して落車。病院へ搬送されましたが、そのまま帰らぬ人となってしまいました。

私にとって伏見選手は、単に「有名な競輪選手」「オリンピックのメダリスト」というだけの存在ではありません。

1996年のアトランタ大会から2000年のシドニー大会へかけて、私はKEIRINのオリンピック正式種目化に関連する作業に携わり、代表合宿への同行なども行っていました。その中で伏見選手と一緒に過ごした時間も多かっただけに、今回の訃報にはかなりのショックを受けています。

伏見選手は2000年シドニー大会への出場が確実視されていました。しかし、代表最終選考会でまさかの落選。ところが、その挫折をバネにするかのように、その後は本業である競輪で一気に才能を開花させていきます。

2001年には、ふるさとダービー函館で初優勝。さらにオールスター競輪を制して特別競輪初優勝を果たし、年末のKEIRINグランプリ01でも優勝。その年の賞金王に輝きました。

そして2004年のアテネ大会では、念願だった自転車競技日本代表入りを果たします。長塚智広選手、井上昌己選手とともに男子チームスプリントに出場し、見事に銀メダルを獲得しました。

私自身の競輪との関わりを振り返ると、1998年の長野オリンピック終了後に電通西日本岡山支社を退職しています。

岡山支社時代には玉野競輪場を担当させていただきました。前職では1991年から弘報館という広告代理店の競輪案件作業を受託させていただいていており、退職時点で8年間にわたって競輪関連の仕事に携わっていたことになります。退職時には、「これで私の競輪の仕事も終わった」と思っていました。

ところが、それまでの経験をテレビ中継などで一緒に仕事をしていた電通のメンバーに評価していただき、退職後も競輪関連の仕事に関わらせていただくことになりました。

そんなわけで、本来なら途中まで関わって終わるはずだったKEIRINのオリンピック正式種目化に向けた仕事にも、その後も継続して携わることができました。

そして2000年のシドニー大会からKEIRINがオリンピックの正式種目となり、2004年のアテネ大会、そして私が最後に競輪関連の仕事に関わった2008年の北京大会まで、その歴史を間近で見ることができました。

電通西日本を退職した時には、「もうスポーツの国際大会や競輪の仕事に関わることはないだろう」と思っていただけに、この経験は私にとって本当にありがたいものでした。

しかも、アテネ大会では日本代表が銀メダルを獲得する瞬間を見ることができました。そして、私にとって最後となった2008年の北京大会にも伏見選手は日本代表として出場しています。

・アトランタ大会のあった1996年デビューで一気にS級入り。
・シドニー大会の代表選考で味わった挫折。
・その翌年、競輪界の頂点へと駆け上がった2001年。
・そして2004年のアテネ大会で獲得した銀メダル。
・さらに2008年の北京大会。

私自身の競輪との関わりを振り返ってみても、そこにはいつも伏見俊昭という選手の姿がありました。

50歳になった現在も現役の競輪選手として走り続けていた伏見選手。私にとっては、本当に思い出がいっぱいある選手です。それだけに、まさかレース中の事故によって、このような形で亡くなられるとは思ってもいませんでした。

あまりにも突然のことで、今も信じられないというのが正直な気持ちです。伏見俊昭選手のこれまでの活躍に敬意を表するとともに、心よりご冥福をお祈りいたします。

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