yume1今やフジテレビ本社と周辺を使った夏のフェスティバルは恒例行事となりましたが、それのスタートになったのが1987年の「コミュニケーションカーニバル 夢工場'87(以下 夢工場'87)」でした。

東京&大阪の同時開催。会場は当時東京モーターショーが開催されていた晴海の東京国際見本市会場(1987年が最後の晴海開催)と大阪は南港のインテックス大阪で、開催期間は東京モーターショーですら12日間の開催なのに夏休み期間をフルに使った7月18日から8月30日までの43日間というすごい規模でした。

当然ですが中心となったのはフジテレビで、同じくフジサンケイグループの関西テレビ・ニッポン放送・ラジオ大阪も同時主催という形式でした。

70年代ジリ貧だったフジテレビは制作改革に着手。横澤彪さんらが東京・大阪の売れてないお笑いタレントを結集させ、お笑いに理解のある関西圏スポンサー(マンダム/小林製薬/味覚糖/日清食品/任天堂 等)を集めて実現させた「オレたちひょうきん族」が大成功。

平日昼間の視聴率低迷は、月ー金の帯番組として「森田一義アワー 笑っていいとも!」「ライオンのいただきます」「夕やけニャンニャン」といった同じくお笑いタレントを中心としたキャスティングの番組を次々ヒットさせ劇的な成長を見せていました。

当時の立役者は鹿内(しかない)春雄氏。フジサンケイグループ創業者の鹿内信隆氏の長男で1980年に35歳の若さでフジテレビの副社長に就任すると、開局時に編成部長だった村上七郎氏を出向先のテレビ新広島から呼び戻し、編成局長に日枝久氏を営業部長から異動させ、番組編成(放送枠を決める仕事)と番組制作を融合することに着手します。

「オレたちひょうきん族」の成功は、村上さんが編成と制作を仕切ったのもありますが、これと並行して関西テレビへ将来の社長含みで副社長として出向したのも大きく、関西圏スポンサーをフジテレビ系列に引き込む大きな原動力になったというのもあります。

鹿内春雄氏はこのイベント終了から約8か月後に急死するのですが、3回の結婚歴があり様々な良くない話しもあるのですが、ここでは話しの本筋とずれるので書きません。

「夢工場'87」の予算は150億円と壮大で、電通や博報堂も全面的に協力するものの、金額を集めただけでは出来そうに無い様々なプランが盛り込まれており、鹿内氏がNTTを口説き落として最先端の光ファイバー技術を全面的に導入して、東京ー大阪の同時イベント実現を果たしました。

結果はと言うと、気が狂うぐらいの来場者で会場は常に押しくらまんじゅう状態の大盛況。収支は赤字を予想していたのに結果的に20億円の黒字となったのでした。

今も続く「FNS27時間テレビ」の原型が始まったのもこの時。「フジテレビ開局30周年特別番組・FNSスーパースペシャルテレビ夢列島」としてイベント会期初日18日の21時から放送開始。

最初から最後までふざけた内容で、日本テレビの24時間テレビをネタにしたパロディーが随所に散りばめられ、ポスターには「チャリティーではありません」と書かれる始末。

司会はタモリ氏と明石家さんま氏となっていましたが、放送冒頭は直前枠のナイターが長引いて同時並行の野球を実況している古舘伊知郎氏の声がガンガン入る感じでスタート。深夜になるとフライデー襲撃事件でフジテレビ出演NGとなっていたビートたけし氏が出演。19日の午後には夢工場の現場から生中継も入りました。

私の家には86年末の時点で、なんだか良く分からない白黒のお面が数十枚と、任天堂のゲームソフト「夢工場ドキドキパニック」があり、入場券も大量にあったので周囲に配りまくったのですが、私は87年1月からカナダに引っ越してしまったので、東京・大阪の両会場を各1度しか行けませんでした。

横浜博覧会は89年なので2年後。大阪の花博は90年なので3年後。まだバブル前夜の頃にフジテレビはすごいことをやっていというお話しでした。今の「大阪万博間に合うの?」なんて話しがウソのような話しで、当時は「3か月あればなんでもできる!」って感じでした。おしまい。