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2021年03月16日

昨日は貴重な方々の訃報に接しました

ダウンロードポンタさんこと村上秀一氏の訃報に接したのが昨日。同じ日、電通OOH局の行正明央氏の訃報も届きました。なかなか精神的に厳しい月曜日となりました。実は私の53歳の誕生日だったんですけどねー。

ポンタさんは伝説のドラマーです。もう私が業界入りした90年前後には、インペグ屋さんと呼ばれるミュージシャン専門派遣会社にリストアップを依頼すると必ずトップに位置づけられているのがポンタさんでした。

もちろんトップ中のトップですからギャラも結構なレベルですので、なかなかお仕事をご一緒する機会には恵まれませんでしたが、それでも2度ほど現場に寄せていただく機会がありました。簡単に書くとオーラが違う。そしてオーソドックスかつミュージシャンに徹した方でした。

正直メインのタレントより年季も経験も上なわけですよ。だけど偉ぶらない。そして譜面に忠実。安定感・安心感がリズム隊にドーンといるのは、全体を太く強くさせるのだと感じさせてくれました。

それだけに昔の渋谷PIT-INNでセッションライブを見た時は衝撃ですよ。手数多いじゃん!当時のギターは大村憲司氏でベースが小原礼氏ですよ。ポンタさんと大村さんが関西人だってのも、このライブで知りました。ただ、大村さんは98年に49歳で他界されちゃったんですけどね。

何かのディナーショーでロミー木下氏と鈴木ウータン氏がポンタさんの話しをしてたんですけど、だいたいミュージシャンが現場にいない人の話しをする時って欠席裁判になりがちだけど「ポンタってすごいよねー」って話しばかりされてたのが印象的でした。

行正さんはオリンピック等で街中に「Welcome to JAPAN」って幕や看板が無数に張り出されますよね。あれの日本における元祖です。98年の長野大会で初めて実施され、まさにプロデューサー兼ディレクターとして活躍。シティドレッシングと名付けられました。

成田空港・羽田空港・東京駅の全発着案内板や広場に華々しい装飾が飾られたのは記憶に新しいですが、当時の私は31歳。行正さんとは歳が近かったので「同世代にはスゴイ人がいるもんだなー」って感じでしたが、私は会社を辞めてしまい、その次は2002サッカーワールドカップでした。

ここでも行正さんが仕切られてまして、会場が日本中に散らばっていたので大変だったと思うのですが、それをしっかりやり遂げられました。法的に屋外広告の掲出出来ない場所に出す方法や、法的解釈の変更等について、本当に細かくご存じの方でした。

今まさにその知見が活かされるタイミングだったのですが・・・。周囲もさることながら、ご本人はさぞかし無念だったことでしょう。

ポンタさん、大村さん、行正さんに共通しているのは酒。そして私も同様の生活を送ってます。ポンタさんは10年以上前にやめてましたけどね。

明日は我が身の年齢となりました。今死んでも「早いっちゃ早い」程度で済まされる年齢でしょう。そこまで生かしてくれた神様やお取引様や周囲の方々に感謝です。その上で故人の皆様方の冥福を祈りつつ、しばらくは一人昔話を脳内で楽しみたいと思います。



gq1023 at 06:08│Comments(0)

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