釈然としない昨日の8耐結果なぜ路チュー写真が公表されるのか?

2019年07月30日

軽く関西お笑い近代史を振り返り

吉本の大崎会長がなぜか批判の矢面に立たされてますが、ものすごいやさしい人ですよ。父親が関西でテレビスポンサー集めをしていた関係で、いろんな時代背景を体感して来てたんですね。

大崎さんは1978年入社だそうですが、1979年に関西テレビで「誰がカバやねんロックンロールショー」が始まります。音楽とお笑いが融合した伝説の番組です。

司会はテレビ初司会となる明石家さんまさん。そこに準司会で紳助・竜介が布つなぎ姿で出演してました。半年でゴールデンから深夜帯へと移動し1年で消えたのですが、ここが大物2人が共演した原点じゃないかなーと思うのです。

当時のスターは関東の「星セント・ルイス」と関西の「やすし・きよし」。そこにニューウェーブとして「B&B」と「ツービート」が登場し、漫才ブームへの序章がありました。

81年にはフジテレビ「オレたちひょうきん族」のテスト放映が始まります。フジは「楽しくなければテレビじゃない」をスローガンに、圧倒的トップだった裏番組「8時だョ!全員集合」にぶつけたのですが、放送ごとに人気を集め毎週レギュラー化しました。

太田プロのツービートと吉本のB&Bや紳助・竜介とかさんまさんが共演するなんて考えられなかったし、関西のお笑いが関東でここまで人気を博するとは予想もつかない時代です。

82年にはNSC(吉本総合芸能学院)が誕生。同時に1期生だったダウンタウンが誕生します。86年には若手中心の劇場「心斎橋筋2丁目劇場」がオープン。87年にデッセ・ジェニー、88年に関西ローカルの帯番組で「4時ですよーだ」でダウンタウンさんの人気が急上昇。

同じ年、関西で数々の吉本スター達を生み出した毎日放送の「ヤングおー!おー!」が終わります。仁鶴・三枝・可朝・小染・きん枝・八方・文珍・明石家さんま・島田紳助・松本竜介といった人々をスターに押し上げた番組でした。(小染さんはトラックと相撲を取って亡くなられましたが・・・)

その頃の吉本では、木村さんが大阪の制作部次長になって、新喜劇の立て直しが必要ということで「新喜劇やめよっカナ!?キャンペーン」ってのを展開したんですね。89年10月から90年3月までの6ヵ月間で延べ18万人を集客しないとやめると言う展開でした。

花紀京&岡八郎という大スターが勇退させられ、いろんなことがあったんですが、結果的にはギリギリで集客目標をクリアして新喜劇は生き残ったんです。激動の時代でした。それから1年後の91年4月には林正之助会長が亡くなられたんです。

林会長が亡くなられた年の10月から日本テレビで「吉本印天然素材(略称テンソ)」がはじまります。雨上がり決死隊、バッファロー吾郎、FUJIWARA、ナインティナイン、チュパチャップス、へびいちごといった今につながる若手たちが一気に出て来ました。

ミモ・ファルスとか中田なおき・ゆうじとかオモロイやつらはいっぱいいたんですよ。そういういろんなことがあった時代に、NSCから若手中心の時代づくりや、漫才ブームの再燃といったすべての時代を気づいてきたのが大崎さんです。

私が業界入りしたのが90年ですから、いい意味で若手が調子に乗ってましたねえ。そして悪い意味でも若手芸人たちが天狗になってた。まあムカついたことも何度もありましたよ。木村次長も雑なブッキングでしたしね。

ただ大崎さんは、主流派じゃない扱いを受けてる感じでしたねえ。デッセの支配人だった水谷さんとかも大変だったと思うんですよ。それでも必死に若手を育成して、もう一度東京進出を果たして今の成功を築きあげたわけですからねえ。

当時の大崎さんはカッコよかったですねえ。スーツを着てる姿なんて全く知りません。もう10年以上も会ってませんし話してませんが、かっこいいジャンパー着て豪快で楽しい人だった姿が印象に残ってます。

まあ今は経営者ですから劇場の支配人や管理職には厳しいと思いますが、それも愛があってこそじゃないですかねえ。なんか落ち着いて欲しいなーってのが正直な気持ちです。

ちなみに天ソダンスの振り付けは、あの伝説の振付師 夏まゆみ先生です。



gq1023 at 04:45│
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