ヘンテコな日本文化セクハラがなくならないわけ

2018年12月23日

最寄り駅である武蔵小山の話し

現在の東急電鉄目黒線武蔵小山駅周辺の話しです。この路線は東急電鉄の路線でも一番古く、実業家渋沢栄一氏が提唱した田園都市構想に基づくもので、1918年(大正7年)に田園都市株式会社設立され、鉄道敷設&住宅地開発が計画されました。

1922年(大正11年)に、田園都市株式会社は鉄道事業を分離して目黒蒲田電鉄を設立。1923年(大正12年)3月11日に目黒ー丸子間が開通。同年11月1日に丸子ー蒲田間が開通し、目蒲線となりました。そして同年9月1日に関東大震災が発生。開発した鉄道沿線が一気に賑わいます。その頃の駅名は小山駅だったそうです。

渋沢栄一氏は、Ebenezer Howard(エベネザー・ハワード)の田園都市論に基づく住宅地開発を提唱し、小山八幡神社のある高台を宅地開発していましたが、その前に沿線は流入して来る移住者でにぎわってしまい現在に至っています。少し時期が違えば武蔵小山は今の田園調布のような高級住宅街だったかもしれません。

目黒蒲田電鉄は開通翌年の1924年(大正13年)に武蔵小山駅に隣接した場所に府立八中(現都立小山台高校)を誘致します。同年、駅名を現在と同じ武蔵小山駅に変更します。1926年(大正15年)4月1日 には平塚村が町制施行し平塚町となりました。

駅の東側に流れる品川用水がまだあり、その水を利用した水車が点在していた農村は、一気に住民であふれる状況となり、1926年(大正15年)11月8日に小山尋常小学校(現品川区立小山小学校)開設。1927年(昭和2年)7月1日には平塚町は荏原町へと改称。

蒲田から五反田を結ぶ現在の東急池上線建設も進み、1927年(昭和2年) 8月28日に雪ヶ谷駅ー桐ヶ谷駅(現在廃止)間が開通して戸越銀座駅が誕生します。同年10月9日に桐ヶ谷駅ー大崎広小路駅間が、翌1928年(昭和3年) 6月17日に大崎広小路駅ー五反田駅間が開通し全線開通となりました。

1928年(昭和3年)には武蔵小山駅のキャパシティが足りなくなり、すぐ西側に西小山駅が設置され、その後も1929年(昭和4年)1月28日に後地尋常小学校(現品川区立後地小学校)が、1930年(昭和5年)に向原尋常小学校(現目黒区立向原小学校)が誕生。1932年(昭和7年)10月1日に荏原町は荏原区となりました。

1934年(昭和9年)4月に月光原尋常小学校(現目黒区立月光原小学校)、同年6月8日に平塚尋常小学校(現品川区立荏原平塚学園)、1937年(昭和12年)12月には東原尋常小学校(空襲で全焼し廃校)が設置され、どんどん家族世帯も増えていったようで、武蔵小山周辺は一大歓楽街となって行きます。

近くにあった目黒競馬場は、地域開発の活性化に伴い地主からの賃料値上げ要求に屈する形で、1933年(昭和8年)春の開催を最後に、1907年(明治40年)からの歴史に幕を下ろしました。1932年(昭和7年)開催の第1回日本ダービーはこの目黒競馬場での開催でした。

昭和初期に商店群が次々と誕生し、昭和12年には武蔵小山商業組合が結成されますが、戦争の足音は武蔵小山にも大きな傷跡を残します。その最大のものが武蔵小山商店街関係者1,030名による東京荏原満蒙開拓団の満州移住です。

国策として送り込まれた満蒙開拓移民は約27万人。その中で東京最大の団体が東京荏原満蒙開拓団でした。戦時下に商業は不要とされ、昭和18年に必死の思いで新天地を求めて移住したのですが、母国に戻れたのはたった13名。その場所も1945年(昭和20年)5月の空襲で灰と化していました。

戦後の武蔵小山は、その燃え尽きた灰やガレキで品川用水を埋め新しい街を作りだします。バラックは次々と新しい住宅へと変わり子供たちの笑顔が街にあふれます。商店も次々と誕生。1947年(昭和22年)3月15日に荏原区は品川区と合併。同年12月には武蔵小山商店街協同組合結成。1954年(昭和29年)4月には品川区立小山台小学校設置。

立会川沿いには料亭が10件以上も並び数十名の芸者を抱える花街があり、遊郭もあったそうですから、相当な賑わいだったことが想像できます。昭和31年12月には武蔵小山商店街にアーケードが完成。

子供の数もハンパなく、地域には10軒以上の駄菓子屋があり、娯楽施設としては映画館、雀荘、卓球場、バッティングセンター等があり、駅前映画館の「南星座」と「巴里ー座」は賑わいの象徴。ピンク映画をやっていた「月光座」は若者のあこがれの場所だったそうです。

駅名も地域活性化とともに変化し、東急蛇窪駅は戸越公園駅東急に、東急戸越駅は下神明駅に、東急洗足駅と旗ヶ岡駅は旗の台駅に、1968年(昭和43年)11月15日に都営地下鉄浅草線の泉岳寺ー西馬込間が開業し戸越駅が設置されました。

武蔵小山駅前は一大飲食街となり、多くのキャバレー・スナック・バーが軒を並べ、商店街は都内有数の規模となり全国発の商店街単独でのクレジットカード発行により、その手数料で商店街運営をやるという画期的な試みで地域はどんどん活性化していきました。

ただ、急速なモータリゼーションの加速で自動車を持つ世帯が増え、渋谷・銀座へ20分以内で行けるという利便性もあり、昭和50年代に入ると様相は一変。映画館は都心部に集約され次々と廃止、子供の減少とともに駄菓子屋やバッティングセンター・ゲームセンターも姿を消しました。

街中にあった商店もスーパーマーケットの台頭とともに減少し、武蔵小山商店街の店舗も仏壇屋・着物屋・宝石屋といった高額商品の店が減り、ファーストフード店・携帯ショップ・飲食店へと変わり、武蔵小山商店街の独自クレジットカード手数料は激減していることでしょう。

私が引っ越して来た1999年(平成11年)の武蔵小山駅は、18m車両×4両編成の電車が走る目黒ー蒲田間を走る東急目蒲線の小さな駅でした。その頃は「ついこの間まで目黒駅と大岡山駅は地上駅だった」と聞いていたものです。

ところが翌年2000年(平成12年)には目蒲線は目黒線に変更され、20m車両×6両編成の長大な車両が走りはじめました。その年のうちに地下鉄南北線&三田線との相互直通運転開始。翌年には南北線が埼玉高速鉄道との相互直通運転を開始したので、浦和美園まで行けちゃいます。多摩川園駅が多摩川駅に変わったのもこの頃でした。

2004年(平成16年)には駅前再開発が決定。2006年(平成18年)7月2日に駅が地下化。2009年(平成21年)5月には駅前広場完成。2010年(平成22年)9月17日駅ビル開業。今は飲食街をぶっ潰して41階建てマンション2棟が建設中。

2022年には東急目黒線が相鉄線とも相互直通運転するそうですので、海老名ー浦和美園間を走る長大な路線になって、6両編成は8両編成になるとのこと。

今後は再開発で古い家を手放して高層マンションに引っ越した周辺地権者の姿を見て「うちも売りたい」って人々が多数出て来るでしょうから、当面は開発ラッシュが続くことでしょう。まあ先祖代々この土地だなんて人はいないわけですからね。

まだ住み始めて20年も経ってませんが、地元のお祭りを運営したりPTA会長やったりするようになりました。変化がすごすぎて、どこが昔の遊郭や花街だったかすらわかりません。そしてこれからも変わっていきます。この街を愛してこれからも住み続けていきたいと思います。

「品川区昭和33年航空写真図」はこちらから(別ウィンドウ表示)

gq1023 at 08:54│
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