薄れていく興味と記憶喫煙可能な居酒屋のPM2.5は北京並みらしい

2013年03月10日

東京大空襲の日

6fed7d8a.jpg東日本大震災から2年。まるで報道されなくなった悲惨な歴史があります。それは昭和20年の東京大空襲。日本とアメリカの両国が、あまりにもおろかであったためにこの事態は発生しました。

日本の軍需産業は、もともと町の小さな工場主たちがつくった部品に支えられていました。精密機械のネジやガラスといったものは、特に東京に集積していましたし、連合艦隊の母港である広島にもそれは多く集まっていました。

日本の内閣はすでに昭和18年、徴兵による労働者の減少を補うため「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、昭和19年には授業の半分以上は無給の勤労奉仕にあてられていました。昭和20年には「決戦教育措置要綱」という、全学生の動員も決まりました。

つまり、町を挙げて戦争を後押ししていたのです。それはアメリカに「町ごと壊滅させるしか戦争を終結させる方法はない」と決断させました。

3月10日は大日本帝国陸軍記念日でした。人々は「陸軍記念日に大空襲がある」と噂されていたため、翌日に出かけるのはやめようと思っていたことでしょう。昭和20年3月9日の夜を迎え、人々は眠りにつきました。

その警報は突然でした。22時30分空襲警報。人々は明かりを消し、ひっそりと静まり、各軍は臨戦態勢に入ります。しかし、この警報は日付が変わるあたりで解除されてしまいました。多くの人々が明かりを灯したことでしょう。

それは格好の標的となりました。明かりが密集する場所をめがけて、アメリカ軍爆撃機B-29が325機で編隊を組んで飛来しました。

昭和20年3月10日0時7分、木と紙で出来ている日本家屋を燃やすために開発された「焼夷弾」だけを搭載されたB-29は、その投下を開始します。機関銃も爆薬も搭載しない対地対空において丸腰のB-29は、日本軍の攻撃のない中、すべての焼夷弾を東京に投下したのです。

次の空襲警報が発せられたのは0時15分。すでに38万発の焼夷弾の半数は投下されていました。なぜなら、先に投下した焼夷弾が、次に来る爆撃機の目印になっていたからです。

大火災は極端な上昇気流を発生させるため、B-29を低空で操縦するパイロット達は、そこを避け飛行し、早期に投下を終えなければならない。燃えている地域をはずして、暗い場所に投下すると言う行為は、その被害エリアをどんどん拡大させました。

3月は春一番の季節、強い季節風が西から東へ吹きます。西から攻撃すれば、一気に東まで燃えますが、煙で標的が見えなくなる恐れがあることから、攻撃は東から西へと展開されました。結果として最初に攻撃を受けた江戸川区内で、火の竜巻が発生しました。

隅田川や荒川はその火災旋風の通り道となり、逃げ込んだ多くの人々を死に追いやりました。しかもその川は凍てついており、火災旋風に巻き込まれなかった人々の多くを凍死させることにもなりました。死者数10万人以上、当時の東京35区の30%以上が焼失しました。

悲惨な歴史に目を背け、アメリカの攻撃を批判しないのは、各種日米交渉において利点があるとは思いますが、あくまでも事実として後世に語り継ぐ努力はやめてはいけないのではないでしょうか?

ここでもあきらめなかった日本と言う国は、その後、地獄の地上戦といわれる沖縄戦へと突入し、さらに原子爆弾を2発も投下され、旧ソ連に北方領土まで奪われます。10万人以上もの死は、敗戦を決意させるに至りませんでした。日米両国のおろかな歴史の重要な日、それが3月10日です。

gq1023 at 12:38│
薄れていく興味と記憶喫煙可能な居酒屋のPM2.5は北京並みらしい