その昔、和歌山に下津町という自治体がありました東日本大震災の予兆って2日前からあったのね

2012年01月23日

横浜に松田直樹を観に行って来ました

naoスタンドにはトリコロールの横断幕やフラッグが踊り。トリコの「3松田」というフラッグも見える。「ヒーデ・ヒーデ」のコールも懐かしく、久々に聞いた「カズゴール・カズゴール」も心地よかった。

僕にとって、サッカーには何の思い入れもないけれど、代表戦もほとんど観たことがないけど、ガンバ大阪やヴィッセル神戸の仕事をやっていて、セレッソ大阪は立ち上がりの仕事をやったり、フロントに昔から友人もいたりして、いろんな形で仕事として関わって来た。

2000年のシドニーオリンピックでは、事前に試合日程が分かっている全試合のチケットを手配して、新婚の友人にプレゼントしたりもして、サッカー協会の泊まるVIPホテルまでセットで手配したりもした。別に嫌いじゃないけど好きでもない。それがサッカーだった。

でも、2001年のコンフェデレーションカップ、キリンカップと関わり、FIFAアンセムの流れる国際Aマッチの場を経験する度、自分の中にサッカーと言う時間も育ちはじめ、2002年の日韓ワールドカップでは自分が爆発しそうに盛り上がっていた。

だから、開催期間中は日本を離れた。仕事はもらってたけど自重も大切だからね。約1ヶ月間ほどバンクーバーとハワイで過ごした。唯一行ったのが横浜国際競技場(現日産スタジアム)での決勝戦。そこに日本代表の姿はなかった。

当時の監督だったフィリップ・トルシエは、フラット3という戦術で、中田浩二と松田直樹は重要な要だった。ホワイトボードを叩きながらヒステリックに叫ぶフィリップと、理解できるまで叫びあってたのは松田選手だった。ついでに通訳のダバディも叫んでた。

僕の記憶の中にある松田直樹はそれだけ。あとはピッチの下にいる我々には、スタンドの声援しか聞こえない。FIFAアンセムとともにピッチへと消えていく選手たち。あとの僕の仕事は片付けしかない。試合中は、その声援をBGMに片づけをやるわけだ。

2002年ワールドカップはFIFAアンセムが使われなかったけど、それも観てないので分からない。だから松田選手はFIFAアンセムとセットになってる。でもあの曲は国際Aマッチでしか流れないのは分かってた。だからウォークマンに音源を入れて観に行った。

今考えると、松田選手はあの準優勝したコンフェデからなんだよね。あれから11年。那覇のホテルで会って以来2年ぶりにフィリップと会ったよ。現役引退選手の一部はブヨブヨになってたけど、中田ヒデだけは違ってたね。現役以上にすごい体だった。

でも、中田ヒデも記憶にないんだよね。あの頃は小野とか森島とか稲本もいたからね。そんなことをいっぱい思い出した2時間だった。

試合のタイトル幕を作ったら、重くて掲出できなくてねえ。総重量120kgもあった。
急いで嫁さんにハトメ打ちとハトメを持ってきてもらって、岡本先輩と近くのホームセンターで大量にロープを買ってきて、プラ柵持ってきただけの運転手さんにも手伝ってもらって幕を出したんだよね。

昨日はすごいメンバーだったよ。それよりもいかしてたのがフィリップ。フラット3の彼が4バックを採用。「マツ=フラット3だった。彼がいなければフラット3にする意味がない!」と来たよ。

ウォークマンでFIFAアンセム聞きながら(当日の選手入場曲はFIFAアンセム)観戦して、ちょっと感動したよ。あの頃は、みんなピリピリしてて話しかけられなかったけど、昨日は楽しそうだった。松田直樹って人間が成せる技だね。サッカーはあれから文化として根付き出したよね。ご苦労さま。ありがとね。

gq1023 at 08:05│Comments(0)

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