2009年09月25日

「第五福竜丸」被爆

9aa74ae3.jpg一昨日、豊洲のららぽーとへ行ったのですが、その帰りにユリの花束を持って、戦争反対的な文字の書かれたTシャツを着た40歳代ぐらいの女性が、隣の席で原稿用紙のコピーをむさぼるように読んでいました。

「あっ!あれは第五福竜丸の調査報告書だ」と嫁に言うと「へーそうなの?」みたいな返事が返って来ました。そりゃ当たり前です。で、結局その方には声をかけず、私達は築地にお寿司を食べに行って、帰りに博多ラーメン「やまちゃん」で締めて帰りました。

その時はそれで終わっていたのですが、どうも気になってネットで調べたら判明しました。あの日9月23日は、第五福竜丸の水爆災害で亡くなった久保山無線長(当時40歳)の命日だったのです。

第二次世界大戦終結から約10年が経過した1954年3月1日。アメリカはビキニ環礁で水爆実験をおこないました。その計画規模は6Mt。実際にこの出力が出るかどうかは分かりませんでしたが、念のため8Mt分のエリアを危険水域と設定して実験は行われました。しかし、実際の核出力は15Mt以上に達し、第五福竜丸はマーシャル諸島近海で死の灰を浴びてしまったのでした。

映画・第五福竜丸を見た方なら分かると思いますが、この久保山無線長は「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言を遺して亡くなり、日本中に強烈な反核運動がおきたのですが、日本政府はアメリカ政府とたった200万ドルで手打ちをした上に「アメリカの責任を追及しないと」の誓約書まで書いてしまいました。

しかも、今だにアメリカはこの船員の死を「放射線が直接の原因ではない」と言い続けています。それどころか「船員の死は放射能ではなくサンゴの塵の化学的影響だ」と公式には文書で発表しています。診断書が読めねーのかよ!しっかりせんかい日本政府!頭おかしいんじゃねーかアメリカ合衆国。

彼らは被爆後に救難信号を発することなく密かに帰港したのだそうです。なぜなら、みんな戦争を経験していて、この事実を公表してしまうと、その事実を消し去るため船が攻撃されて殺されると考えたからなのだそうです。

今、この船は新木場駅すぐの夢の島公園内にある「第五福竜丸展示館」に展示されています。アメリカは前回の湾岸戦争でも劣化ウラン弾を使用し、新たな核被害を創り出してしまいました。このような問題が世の中には残っていることを、ユリの花を持った女性に思い出させてもらいました。

http://www.d5f.org/

gq1023 at 07:37│Comments(0)TrackBack(0)

トラックバックURL

コメントする

名前
URL
 
  絵文字